先取られ。への返答

自分の関心と人の関心がずれることはままあり、ことに自分の着眼点が元の論の本旨とずれたところにあるときには一層そうである。

というわけで、私にとっては終わった話なのだが、せっかく稿を起こして下さったことに敬意を表して、以下はおおや氏へのお返事。

「意味違わないですか。」そうですね違いますね。その語感は私もある程度共有しているとは思う(後述)。でもそのときそうは読まなかった。すまん*1。ともかく私としては「そこは「稲田朋美に関する事柄」という語感で」そのとき読んだのであった。

それで今おおやにきの当該エントリを見直すと、確かに筆者が主張するようにも読めるのだが、私の読みもそうテキストの内在性から外れた読みではないのではないかと、今でも思っている。これが「ご知遇を得ていない」「直接は存じ上げない」あるいは逆に「名前(だけ)は知ってる」であったら、すれ違いは起こらなかったのではないかとは思います。

先に「ある程度」、というのは直接知遇を得ていない相手でも俎上に載せるということは、研究者であればまま起こりうることだという感もあるからだ。ことに分野がだいぶんずれるときなどであっては。自分が相手を個体識別できるということと、相手も自分を個体識別できるということは違って、「存じ上げている」というのは後者に到って初めて言いうるように私は感じる。一方でその感覚を共有しない人をも私は見てきた。そこで相手が自分より著名な人物である場合には、そこに云いがたいグレーの領域があって、それを「(名前は)知っている」というか「存じ上げない」というかは、少し人によってばらつきがあるのではないかと思っている。ここはあまり一般化したくない気がする。

ところで、筆者の意を汲むというレベルの読解においては、今回は私の誤読だったわけだが――さて、誤読だったとしてそれは何か重要な違いを生じるのかどうか。先回りすると、この場合に限っては、あまりその差異をつきつめる必要はないのではないかと思っている。というのは、これを一般化することは危険なのだが、ことおおやにきの筆者に関しては、ある種の節度と品性をその言説に期待してよいだろうと私は考えていて、なので筆者がある私秘的な関係のなかでのみ接することが出来る情報を知っていたとしても、すでに公表されている事柄を超えて、その情報を無断で公開することはないだろう、と予想するからである。そこでの違いはむしろ筆者がある言動を取るときの内的確信の側にあって、発せられる言表にはないのではないか。だとすれば、ブログ上の言表に、知己の有無ということはここで差異を及ぼさない。修辞的にも、「その方を存じ上げないので」というのは後段いわれることがたんに一般論であることの強調になっていて、その知り方の内実というのは、さほど問題ではないのではないかと思うが、どうだろうそこのとこ。

なお他者のセクシュアリティについて憶測を及ぼすこと一般については、それは確かにあまり上品なことではないけれど、思想研究の上などでは許されるかなあとは思っている。それくらいには私もフェミニストなのである――たとえばプラトンの『饗宴』の核心部分の語り手はなぜ女性とされているのか、というのは案外に大きな問題なのではないだろうか、プラトンにとって女性性とは何だったのか、あるいは彼が男性同性愛行為について示している拒否のようなものと実際に弟子と持っていた関係の間には連続性があるのか矛盾があるのかというようなことは一部の哲学史家が主題化しているが、もっと掘り下げられていいことだと思っている*2。もっともそれだって書簡とか日記とか著述から裏づけられる範囲のことでないと時間の無駄ではあるし、実証的な史料から直接にいいうることと推論とは分けなければいけない*3。そしてまた、そうであってすら、生存中の人物や物故して間もない人物の場合に、そういう憶測をすること自体の是非と意義とは別途考えられなければならないということについては、おおや氏とおそらく遠くないところにいるだろうと思っている。

*1:ところでドイツ語だと wissen は理解しているという意味で知っているで kennen は名前を一応知っているなどという意味で知っているなのだが、人に付いては kennen といいませんね。○○さんと知り合いになるは kennen lernen だ。あれはなぜだろう。他人を理解するというような大それたことをドイツ人は考えないということなのだろうか。閑話休題

*2:私個人はそういう仕事に手を出す力量はないけれども。

*3:そして推論はおもしろい推論にはなりえても、しょせんそれ以上の価値を持たない。