処女厨的な、あまりに処女厨的な

処女性についての議論が一部で続いているが、もうぐだぐだ。ケレーニーの「コレーについて」(『神話学入門』収録)とレヴィ=ストロースの『親族の基本構造』くらい読んでから来いよなと思わなくもなく*1。処女性が性的関係のなかで価値となるのは、父権的家族制度における交換財の使用価値を保証するものだからだ(血族の純潔性の維持)。男性の童貞には触れず女性の処女性にのみこだわるということはそういうこと――id:ululunさんが触れておられたが、童貞と処女の価値はかならずしも等価ではない。そもそも家族制度にバインドされた価値である以上、その価値は文化によって異なる。そうして父権的社会において童貞は守るべき価値ではない。価値付ける必要がないのだ。男性は交換される財ではないからだ。婚外性交の露見に際し、女性のみを死刑にする文化(たとえばイスラーム)があることは、そのよい証左であろう。

女性の処女性のみを重視し男性のそれを問わない、それは究極には女性の物象化に他ならない。男性がマジョリティである社会において、女性をものとなし、そのなかで区分し、交換により適したもの、より交換価値のあるものを際立たせる。処女の価値はかくして――童貞とは異なり――発見され、称揚され、強化される。処女性とは、使用における価値であるというよりは、交換における、女性という財の価値なのだ。女性という財の交換において、求められているのは未使用の性器、それも内性器=子宮だ。処女性は長い間、父権的血統の純粋性を確保する唯一の手段だった。だからその使用に先立ち、交換に先立ち、前もって処女性の確認が求められる。

処女厨」の直感的な気持ち悪さは、誰かが端的に指摘したように、女性を物にし性器に切り詰める視線に由来する。便器という彼らの好むアナロジーはだからあながち外したものではない。財の交換というフェティッシュな文脈でこそ、処女性が意味をもつのだとすれば、他の交換可能な事物が女性の隠喩となることは論理的にそう唐突な事態ではない。限りなく陳腐で醜悪ではあるにしても。ひとりの女性として、ひとりの人間として、わたしがそのような眼差しを断固としてはねのけるにしても。

フィクションのキャラクターの処女性一般は自分にとっては超どうでもいい。だからそれを論じることはしない。ただそこにこだわる受容のあり方は気になる。父権的な制度内での女性の交換においてフェティッシュとしての子宮の価値が女性の価値全体とみなされる、その眼差しが、さらに交換=婚姻そのものと切り離されて性的に消費される。それがグロテスクでなくてなんであろう。フィクションであるかどうかを問わず、女性性がそのように表象されるということに対し、わたしは女性として抗議し、また拒絶する権利をもつと思う。

ところで私は貞節ということを重んじますし、性交には出産などが付随することが十分にありえるので、可能であれば結婚まで慎んだほうがよいとは思っています。ただ、件の論争は処女性と貞節を擁護するための議論には到底みえないし、それはおいても議論の筋が悪すぎる。上で書いたような女性観の問題をおいても、とりわけケレーニーの議論は「女神が処女であるとされるのはどういう事態であるか、それは何を意味しているのか」を論じるのだから、件の論争ででてきてもよさそうなものだが。神話論業界の片隅にいる(いた?)ものとして、ちょっと寂しいよ。

フィクションのキャラクターの処女性一般は自分にとっては超どうでもいい。結局だれか個人の想像力の産物に過ぎないのだからね。作者は自分の想像力を展開するのに最適と思う属性を自己の創造物に与え、かれらを配置する権利をもつであろう。いっぽう神話となればそれはある文化全体の所産なので、もう少しまじめに考察する価値があるとは考えている。なおケレーニーによればギリシアの処女神には三つのタイプがあり、ギリシア人にとっての処女とはたんに「まだ性交していない女性」の表象であるだけではないそうだ。

ところでタイトルはホッテントリメーカーなんですが、ニーチェのタイトルは煽り度高いよね。うん。

*1:注記。『親族の基本構造』は超古典なので、いまからすると相当古いことをいっている可能性は高く、また読みやすさで云えば文化人類学の教科書を読むほうがよいと思う。ただ、アルゴリズム研究などしている人はいまでもあれを実例として習ったりするとこれは知り合いの先生から聞いた。構造主義とは何かを知るにはレヴィ=ストロースから入るのがいいかなと思う。