訳してもらってから読む方法の怠惰と陥穽

訳すな、頭から読め - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wakeにまだまだ反響をいただいております。ありがとうございます。

いただいたコメントを前回まとめた際、方法の説明を若干補いましたが、いちどまとめなおしたものを示したほうがよいように思います。これはまた後日。

15:30 段落が長いので読みづらい、とご指摘をいただいたので、小見出しをつけました。その際、わずかながら改稿しています。

もうひとつの「訳すな」――翻訳を前提とした「訳すな、構造を理解せよ」メソッドについて

訳すな、構造を理解せよ、そして、とにかく長いのを読め[絵文録ことのは]2008/12/26で松永さんが紹介している「訳本を読み、その後原文を何回か読み直す」というメソッドは多読の訓練として古くから使われるメソッドですね。英文を読む訓練としてネイティブの人はしばしば聖書を薦めますが、根底にある発想は同じだろうと思います。自分がよく内容を知っていて、整った文体で書かれている、ある程度量のあるものを読む、それを何度も繰り返すことで、次第に英語を読むという作業に慣れていく――そういう、多読系の訓練ですね。いっぽうひとつの単語もゆるがせにしない「前から読む」メソッドは精読系の訓練方法です。

訓練といいましたが、「前から読む」メソッドがそうであるように、松永さんの「訳本を熟知したものを、構造を把握しつつ読む」メソッドも、リーディングの訓練のためのもので、そこから新たに情報を得ることを主目的にした読書ではないように思いました。そして、これも古くからいわれることですが、訓練においては多読と精読と両方をやる必要があります。量的には多読で読む文章のほうが精読より多いくらいがよいといわれます――精読は集中力を必要としますので一度に長時間は出来ません。もっとも「前から読む」メソッド自体は、学習段階にかかわらず自分のものにしておく価値はあると思います。訳本のないものにも適応可能ですので、最悪の場合でも時間をかけて目の前の文献を自分で読むことができます。

翻訳という名の贅沢

わたしたちが外国語を読むのはその言語でしか得られない情報を得るためであることが多いということを考えると、訳に頼る読み方はあくまでも訓練としてなされるのがよく、それを最終目標であるようにいうのはどうかなと思います。たとえば、

これ、Wikipediaやblogの記事ぐらいだと悪くない方法だと思うのだけど、一冊の本をこれで読もうとすると、むしろ途中で挫折する公算が高いと感じたので。

404 Blog Not Found:訳すな、訳してもらってから読め

という意見がありましたが、その点これはむちゃくちゃだな、と思いました。そもそも言語習得訓練についての話を抜き出してきて、「一冊の本」にあてはめるというのが飛躍です。実用的な読書の話かと思うと、発言者自身が認めるように「この方法を卒業するまでは未訳の作品が読めないことである」とあり、結局あまり実用性がない。そうして、ここで紹介される例はSF小説だというのにもトリックがあります。実用性のなさをこの方は「翻訳のあるものが読むに足るものである」的な理窟で弁護しようとしており、たしかにわたしたちが英語なり他の外国語を使うのが完全に趣味なら、ここで推奨されるように翻訳をフィルターにするのもよいでしょう。しかし原著論文やあるいはメディアからの最新情報に、翻訳を待つということは大概の場合使えません。なので、それは趣味的な読書にだけ当てはまる極めて限定された場合の話だということになります。語学の訓練の話であるなら、精読と多読という違うメソッドの話で究極には対立する話ではないし*1、実用というのなら範囲が狭すぎる。

結局、この人がここで推奨しているのは、英語が一定以上に出来ない人は、英語なり他の外国語を使う気分だけを味わい、日本語の中の世界に閉じこもったままでいろということであるように思います。ご自分がそうされるのにはご自由としても、他の方に薦めるには傲岸にして罪深い考えだと思いますがいかがでしょう。まあこの方自身はそういう趣味的な態度でも構わないのでしょうけど、たとえば研究者の場合、外国語で出る論文などをすべて捨てるというのが出来る分野がどれだけあるのか、疑問だと思います(いまは日本語学や日本史のような日本での研究が比較優位を持っている分野でも、それなりに欧文文献やあるいは中国語等で書かれる東アジアでの研究に目配りする必要があるようですし)。

翻訳されたもの以外は読まなくても良い、というのは趣味で外国語を読む人にだけ許される贅沢です。必要に迫られてする読書においては、訳があろうとなかろうと目の前の外国語を読むということが起こりえる。翻訳に頼る、あるいは翻訳を良書フィルターに使うということは「翻訳されていないものについては知らなくて良い」という態度ですが、しかし翻訳されていない重要な情報、重要な文献というのはいくらでもあります。

わたしの例をあげれば、いまでこそ日本語翻訳のあるレヴィ・ストロースの『神話論理』、原著の刊行は1964年から71年でしたが、わたしが学生だった1990年代にはまだ日本語への翻訳はありませんでした。わたしはフランス語はそれほど出来ないので――まだ「頭から読む」が大活躍するような段階――原著を適時参照しながら、stb のドイツ語翻訳で読みました。神話論を扱っていたわたしにとってはそれは必要な読書でした(結局論文では使わなかったのですが、それは一度読んでみなければわからないことです)。翻訳されたもの以外は読まなくても良い、というのは趣味で外国語を読む人にだけ許される贅沢であり、かつ何が読むべきものであるかどうかの判断を他人に任せるという知的怠惰に他ならない。

翻訳を超えて、自分で読む――「頭から読む」ことで著者と闘う武器としての「読解力」を手に入れる

さらに、自分の語学の実力を超えた文献を読まなければいけない場合というのもありえます。その場合、しんどいことですが、「頭から読む」メソッドを使えば、いわば氷床をこじあけるようにしてテキストと格闘することは可能です――訳本を待つだけでは、それは不可能です。そして、そのようなテキストを読む場合には、意味の分からないところを曖昧にしつつ大意を把握する読み方だけではなくて、ここぞというところでは意味をこの上なく明確に把握する読み方が必要とされる局面もあります――文献によっては校訂者の間でも意見が割れるものもあります。そういうところでも意味を「決めて」いくことが読者には必要になる。そういった著者と格闘するような創造的な読みの力の基本になるのは、「頭から読む」メソッドで培った精密に読む力であろうと私は考えています。

補記

松永さんの以下のご発言は、「頭から読む」方式の隠れた前提を適切に指摘されていると感じました(って書くとえらそうだな、意識的に隠したつもりではなかったのですが、別エントリ「お風呂勉強法」で書いたことと併せて、後日くわしく説明するつもりでした)。

ということで、id:Brittyさんの頭から順に日本語訳置き換えをしていく方法をもう一度見てみると、実は助詞が極めて適切に当てはめられていることに気づく。頭から読むためには、構造の理解(つまりは「てにをは」を適切に使えること)が前提となっているのだ。

訳すな、構造を理解せよ、そして、とにかく長いのを読め[絵文録ことのは]2008/12/26

頭から読む方法がほんとに効果的になるのは、英語の基本的な文法、とりわけ統語法が習得されている場合です。id:lernenderさんがhttp://d.hatena.ne.jp/lernender/20081228で紹介されている「主語、動詞」を意識した読みもその一例ですね。英語は格の弱い言語で文中の位置から分析的に語の文法的機能が決まってくるため、出現時には「てにをは」がきっちりつけられないことがままあります。そういうときには、「頭から読む」方法でも、てにをはは付けずに日本語化して、のちほど位置からの文法情報を補えるようになった時点でまとめなおしをします。この点、実際に行っていることは松永さんのやり方「構造を把握してから意味を当てはめる」とあまりかわらないようにも思います。

*1:私は精読重視で、松永さんやこの方は多読重視という傾向の差はありますね。ただそれはお互いを否定しあうような話ではありません。