シナイ山のマドンナ

その女の子は、マドンナと名乗った。

「綽名じゃないの?」と確かめると本名よと答えたが、あとで母親か伯母らしき人が「マルヤム」と呼んでいたので、どちらが綽名でどちらが本名なのかは分からない。本人もまだ英語はおぼつかなく単語を並べる程度、こちらの質問もどれだけ通じていたかは分からない。まだ12歳なのだ。

姉と一緒に山道を歩いているところにわたしが追いついたのが出会ったきっかけだった。宿が同じだったので、厳密には初対面というわけではない、夕食は同じ大食堂で取った。だからお互い顔はなんとなく覚えていた。

どこからきたの、と英語で訊くとイスラエルからと英語で答えた。パレスチナ自治区からなのだ。パレスチナ自治区に住む、アラビア語を話すキリスト教徒なのだ。でも彼らの認識では彼らはイスラエルから来たのであった。そのことが面白かった。姉のマルセルは20歳でテルアヴィーヴの大学に通っている。綺麗な英語を話した。妹のマドンナのほうは片言。それで、マルセルと私はもっぱら英語でしゃべり、マドンナはアラビア語と片言の英語、わたしは英語と片言のアラビア語でお喋りをし、話がすこし複雑になるとマルセルが通訳をした。

満月に近く、月が煌々と輝いていた。山をさらに上っていくとだんだん明るくなって、昼間は物でも売っているのだろうか、小屋の前に大人たちが溜まって、腰を掛けていた。黒い貫衣をきた司祭が座の中心にいた。

巡礼団だなというのは、夕食のときに、そのグループが一同でお祈りをしていたので分かっていた。司祭が立ち上がってグラスを鳴らし、そのテーブルの人々がみな立ち上がった。食前食後の前に立つのは日本の正教会でも同じで、そのことを面白く感じた。ことばが違っても所作が同じというのは何か安心感がある――そうして十字を上下右左と描いたので、その一団が正教徒であることは、推測が付いていた。もちろん姉妹にも確認済みだ。

司祭に近づいて祝福を受ける。頭に手が置かれるのを一瞬感じたあと、「父と子と聖神の御名においてなり、アミン」と日本語でいうところ、アラビア語なのだろうか、何をいっているかはわからないのだが、確かに聖三者が呼ばれているのだろう、そうして短い祈りのあと、神父は流暢な英語で尋ねた。どこからきたの(日本から)。あなたは正教徒なの(いいえ)。どこを回ってきたの(あちらこちら)。聖地にはいかないの。「残念ですが、今回は行きません」と答えると、「それは残念だね。ぜひ聖地にもいらっしゃいね」と神父はいった。
「神父様たちは、パレスチナからいらしたのですよね」というのはすでにマドンナから聞いていたから。
「うん、わたしたちはパレスチナ自治区から来たんですよ。バスでね。この人たち(と周りを指して)みんなマイクロバスでやってきたんですよ」。
ガザからエジプト国境への通行が開放されてよかったですね。と私はいう。そう云ったのは、数日前アレクサンドリアで、イスラエル人の友人から、その数日前までエジプトとガザ地区の間の陸上の国境検問所が閉鎖されていたのを聞いていたからで、司祭は「うん、よかった、おかげで無事来ることが出来た」と笑顔を湛えて応えた。

6合目あたりのその小屋でご来光を待つという大人たちを残して、わたしたちはシナイ山の山頂をめざした。マドンナは、このなかでは一番年が若く、2000mの登山は緩い道とはいえ、そう楽なものではなかったろうが、弱音は吐かず、むしろわたしをなにくれとなく気遣って、水や棗をしきりに勧めてくれた。数時間歩いた後に食べる甘い干し棗のおいしいことといったら! それはほのかな上品な甘みをもち、舌にやわらかく溶け、日本で食べる干し棗とは全然違う何物かだった。12歳の子と手をつないで歩いて、速度は落ちたけれど、でもそれがなんだろうか。シナイの払暁に西風がやわらかく吹いて、そうして8合目でわたしたちは日の上るのを見た。

そのときにとった写真がわたしの手元にある*1。マルセルとマドンナの姉妹が、夜明け前の空とシナイの山々を背に写っている写真だ。マルセルとはメールアドレスを宿で交換する約束をしたのだが(わたしたちのだれもメモ帳をもっていなかったし、わたしの携帯は写真を撮ってすぐにバッテリー切れしてしまっていた)、宿ではふたたび会うことがなかった。いまとなっては連絡先が分からない。

クリスマスが過ぎて(といってもパレスチナの教会――エルサレム総主教座の管轄――はユリウス暦を使っているので彼らのところでは降誕祭は翌1月7日になる)、ガザ地区が爆撃されたと聞いた。AFPによれば、27日、イスラエル空軍がガザ地区を爆撃、死者は現在判明しているだけで200人を越え、負傷者は700人を越えるという。マルセルとマドンナ、あの神父さん、あの巡礼団のひとびとがいまどうしているのかと思う。安否を尋ねようにも、連絡のしようがない。私に出来ることがあるとすれば、もう祈ること以外にない。

パレスチナ問題はよくアラブとユダヤの衝突といわれるけれど、アラブ人というのとイスラム教徒とはここでは同義ではない。パレスチナ問題は本来パレスチナにいた住民たちと移民であるユダヤイスラエル人との利害の対立なのだ。これを宗教問題等におきかえるのは個人的には問題のすり替えだと思う。パレスチナの地で、千年を越える長い期間、ユダヤ教徒キリスト教徒は(庇護民というかたちで二級市民扱いではあったけれど)イスラム教徒と共存してきたのである。それをユダヤ人移民がヨーロッパやアメリカからやってきて権益を独占しようとしたから話がおかしくなった。パレスチナ問題というのは本質においては植民地支配の問題なのだ。政治と経済の問題であって、人種や宗教の対立が先にあったわけではない。

携帯電話の写真フォルダを開いて、シナイ山で撮った写真をみる。同じ顔をした二人の姉妹が写っている。おでこが広くて少し面長で、イコンのマリヤ像もこういう顔立ちだなあと思う。マリヤの顔はパレスチナの女性の顔なのだと改めて思う。

どうか彼女たちが無事であるように、パレスチナに和平があるように、祈らずにはいられない。生ける者のためにも、死せる者のためにも、和平があるようにと。

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*1:なお、携帯電話の充電が十分でなかったので、ご来光の写真はない。アングルを決めようとする間にバッテリーが落ちてしまった。