鰤端末の2008年

2004年にはてなダイアリーを始めて、ときたま更新はするものの、だいぶお休みが開いていました。昨年の9月あたりからかな、更新頻度が増してきたのは。その後だんだん書くことが増えていって、年が改まる頃にはあほほど書いてました。そして現在に至り、あけましておめでとう存じまする。

ちと周回遅れの気がしますが、私 Britty の2008年五大ニュースを鰤端末鉄野菜のエントリをピックアップしつつ振り返ってみます。順位はあえてつけず。

エジプト行

 エジプト本当によかったです。ナポレオンじゃないけど4千年の歴史が見ているって感じがしました。観光値段でものすごいぼられるかと思えば、街の公園でほけっとしているとピクニックに来た一家にお昼を御呼ばれしておいしい家庭料理をたんと振舞われたりもして*1、良くも悪くもここには自分がそれまで知らなかった文化があるのだなと思いました。ものごっつすごい下痢に苦しめられたのですが、あれはたぶん冷たい水を飲みすぎたのが悪かったのだろう、また機会があれば行きたいです。なおナイルの水は(直には)飲んでおりません。

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シナイ山

 エジプトは全体にはイスラムコプトの国という感じを受けましたが――キリスト教人口は人口の5%から15%といわれ、日本のキリスト教徒よりずっと多いのですが、そのほとんどはコプトです。正教徒はマイノリティなんですよね――シナイ山は違います。コンスタンティウス帝の母へレナの寄進によると伝承される山中の修道院は開基以来東方正教会に属し、ビザンチン典礼を厳格に守って早朝から夕刻まで修道士が祈りを捧げています。っていうとものすごい厳しい場所のようですが、むしろその逆で、ほんとうに心地よくくつろげる静かなよい場所でした。ネットワークが来てないのが唯一の欠点ですか(修道院のウェブページもあるんだけど、どうもアテナイにある支援団体が管理しているらしい)。宗教ヲタとしては数々の宝物の他、現代ギリシア語による聖体礼儀に初めてご参祷するなど、貴重な経験をいろいろすることが出来ました。
 そうして修道院のご好意で、至聖所で聖エカテリナの不朽体におめにかかることが出来ました。特別の寄進とか何もなしです。ほんとうのご好意。まことにありがたいことです。
 いまでは平和なシナイ半島ですが、中東戦争の舞台になった場所でもあります。修道院の方々は戦火の中で修道院を守るために苦労されたと何かで読みました。わたしが訪れたときにはそんな苦労は見てとれるような痕跡を残してはいませんでしたが――イスラエルのガザ侵攻の知らせに年末接して、修道院の安和を改めて思い出し、またその脆さを思い、複雑な気持ちになりました。
 それはさておき、日本人の観光客の方は「何もないところだから」と一日で過ぎてしまうことが多いようなのですが、シナイ山の魅力はあの何もないところにあります。あると思います。ぜひ連泊してほしい。修道院のゲストハウスにはリピーターの方が多く、主に西欧の方ですが、何度も来ておられる方が数人いらっしゃいました。個室で朝晩の食事付きで35米ドルですから、そう贅沢というわけでもないと思います。アクセスはちょっと不自由ですが。なおネットワークについては、修道院から数キロのところにあるサンタカテリーナの街のカフェにはPCがあって旅行者も使えると現地在住の方から聞きました。
 あと、1400mくらいからアタックしたとはいえ、2000m級の山にとにかくも上りました。その夕暮れ、街と修道院の四辻からトランクを引いて修道院まで歩いて上っていったので(3kmくらいある)、実際にはもう少し歩いたかな。日暮れの道をひとりで歩くのは結構気分的にはきついものでしたが、ティッシェンドルフもこの道を歩いたのかなとかやくたいもないことを考えつつ、歩きとおしましたよ*2。体力的にちょっと自信がついた修道院訪問でもありました。

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お話をする

 ウィキマニアKOFでお話するのは前年に引き続きなんですが、昨年はもうひとつ、ひょうごんテックからお招きをいただき、ウィキペディア(とウィキメディア・コモンズ)のご紹介を致しました。ウィキペディアは実際のところ 一次資料 primary source として使わないほうがお勧めなのですが、ひょうごんテックのミニ・シンポジウムではそのことを取り合えずおいて「GFDLで出ているウィキペディアのコンテンツを活用する」ということに絞ってご説明しました。他の団体やコミュニティの方などとお会いするたびに、プロジェクトに大きな関心をもっておられるということは痛感します。わたしが引き続き情報発信をしていくということも大事なのですが、他のウィキメディア・プロジェクト参加者も情報発信なさるように促し・励ましていくということも、より多角的に取り組んでいけたらと思ってます。

いろんな方とあう

 ほんとにいろんな方とお会いしました。いろいろな出会いがあったなかで一番心に染みたものは「1月に飲み会を企画し、縁あってDebianの方もお誘いする」→「そのときの飲み会参加者の方にKOFの懇親会の席でゲームのお誘いを受ける」→「亡夫の大学の先輩方と結婚式以来の再会」。いやあ人の縁って不思議なものだなとつくづく感じました。誰だね世間が狭いだけだとかいってるのわ。
 そしてこの出会いコンボが炸裂したのも、きっかけは2007年にKOFに出たことで、それはWikimania2007に行かなければ起こらなかったことで、あるいはKOFに応募しようかどうか迷っているときに背中を押してくれた友人たちがいて……ウィキメディア・プロジェクトに参加して、いろいろな方のご支援でここまで活動することが出来て、そうして新しい出会いがあり、懐かしい再会がある、その縁の不思議さありがたさということを改めて思います。
 とはいえまだまだ尻は重く、id:love_chocolate さんの、急に声を掛けて即応するあのフットワークは見事で、自分も見習いたいと思います。
 昨年はフリーチベット運動に初めて関わり、その方面でもいろいろな出会いがありました。ラサ暴動は日本のメディアの10大ニュースには入らず、メディアの関心というものはそういうものなのだろうなとも思います。ですが在日チベット人の方と知り合うなどするうちに、このままにしてはいけないという思いは深まりつつまります。さしあたりは在日の方々に対して自分が出来ることを考えつつ、この方面でも活動も細く長く続けていければと思っています。

納骨

 亡夫が逝って7年、いろいろ考えた末に、お墓を作らないことに決めました。大阪の一心寺さんという浄土宗のお寺にお預かりいただきました。およそ10年後に他の方のお骨とあわせて「お骨仏」というものになるのだそうです(ご報告 - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake)。
 これがベストだったかどうかは私にもわかりません。でも家族がみな納得できる結論であったことは確かで、そのことを大事にしたいと思います。
 「みんなでなかよくしてください」と、これはもともとは誰かの誕生日のために下書きをした亡夫の肉筆があるのですが、どこかでそれを遺言のように思っている自分がおります。みんなで仲良く、でも節は曲げず、前を向いて歩いていきたいと思っています。

いま幾つかのことを挙げてみましたが、みな人との出会いがあり、いろいろな人に助けられてこそ実現もし無事に成し遂げられたことだと改めて感じます。旧年中のご愛顧、ほんとうにありがとうございます。40過ぎて定職もなく、さしたる業績もなく、七転び八起きの人生ですが、命長らえてここまで来たことこそをまことに奇妙にもありがたいこととも思います。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

*1:トマトソースでナスを煮込んだ辛い煮込み料理があるのですが、これがおいしい。どうやって作るのかレシピ探索中。

*2:いや実際には学者先生はロバか馬で来たんだろうけど。