物乞いするのは恥ずかしい

それは不安定なだけでなく人の心を折ることだろう。だけども物乞い以外で生計を支えられない人が出ることはこの世では避けがたく、そうした場面は、かつてもいまも数多く存在した。これからもそうだろう。その根絶は美しい夢だが、わたしはそこまで夢想家ではない。

エジプトに行く前、ふらっと立ち寄った本屋で見かけた書の一節を、さいきん折に触れて思い出す。「施しなさい。あなたは施せないほど貧しいのですか。ならば、乞いなさい」。カッパドキア生まれの4世紀の人、ニュッサのグレゴリオスの言葉だという。

乞う人がいて、施す人がいる。施す人がいてこそ、乞う人もいて、そうして乞う人も飢えずにすむ。その違いはどこから来るのか――おそらく、そう大きな違いはないのだろう。それは私の運命だったかもしれない。巡り会わせが少し違っていたとすれば。阪神大震災のさなか、いろいろな人の生活がほんのちょっとしたことできしみあるいは違ってくるのをわたしたちはみた。それからまだ13年しか経っていない。

国や為政者が富の再配分を十分にはすることがなくて、その隙間を個人やあるいは団体の施しは支えてきた。どちらが卵で鶏なのか、わたしは知らない。ただ人の作る世の中は多かれ少なかれいつも完全なものではないだろう。それで「貧しい人はいつもあなたたちとともにいる」と云われている。

最低限の生を支えるために、その糧を乞うのは、恥じるべきことではない、それは他の人が与えるべきものでもある、人間はみな生に向って造り出されているのだから。また人はひとりでは生きられないのだから。グレゴリオスの言の裏にわたしはそんな響きを聞く。人は一人では生きられない。普段それを忘れているが、それでもそうなのだ。私が食べる食料も、纏う衣服も私の手が作り出したものではない。精神的なものの一切を度外視したとしても。ひとはひとりで生きていけない。この世界では。

わたしは何か勘違いして、件の詞をナジアンゾスのグレゴリオスの言葉だと誤解していた。先ごろブックマークコメントでも誤って引用した。他でも間違って言及したところがあるようにも思う。己の備忘と訂正のためにこれを記しておく。