永遠の記憶

何をしたところで、100億年してしまえば、宇宙自体が消滅してしまう。

その時には、自分がいたことを、覚えている人もいない(いなくなってしまう)し、自分が残したすべての足跡は、すべて、跡形もなく消えてしまう。

100億年すれば、宇宙は消滅する。だから、生きていることに意味はない。

うん、人は、死ぬよね。
父祖たちはわすれられ、私の愛したひとも忘れられ、私もまた忘れられる。
その熱情も、その悲哀も、またみなともに忘れられる。
「前の者のことは覚えられることがない。
また、きたるべき後の者も、
後に起るものはこれを覚えることがない。」*1

すべてのものはむなしい。

わたしたちはいろいろな父祖たちの事跡に囲まれて、もう父祖たちの思いを知らない。その涙をその喜びをもはや知ることがない。そうして、わたしたちの後から来る人たちもやはりそうなのだろう。

忘れられる。なにもかも忘れられる。

でも神はすべてを覚えている。記憶している。だから、それは無に帰さない。神の記憶のなかで、それらは永遠になる。地上にいるすべての人に忘れられたあとでも――神がそれを覚えている。

わたしたちのことを神に祈ってくださる方がいるのを私は知っている。そのことはわたしを大いに慰める。その方の記憶を通じて、神とその人の密やかな語らいのなかで、わたしも、またわたしに連なる人々も、さらに永遠に連なる、そういうことを思う。

なのに、勉強するだとか、人を助けるとか、必死に生きるとか、そういう、世の中で「意味がある」とみなされていることに、何の意味があるのだろうか?

これを読むあなたが、神を、その永遠を信じているかどうかわたしは知らない。信じない人に、神とその永遠の記憶の慰めを説いても、たんなる自己欺瞞にしか聞こえないと予想する――神の永遠は時間を越えていて持続的なものではないとか続けると、さらにさっぱりだろう。長い持続でないような永遠というものが、少なくとも我々の概念の上ではありえるし、また信仰の上でもそうなのだ。マルクスはこれを冷笑して宗教は人民の阿片だといった。でも、神があなたにとって現実でないとしても、他の人はまだ現実なのではないだろうか、あるいはその人もあなたも後には忘れてしまうかもしれないとしても、それはその瞬間、現実なのではないだろうか。

だったら、それで、いいんじゃないかな。永遠を信じられないなら、いっそう瞬間にかけてみてもいいんじゃないかな。それでどうして駄目なのかわたしにはわからない。瞬間をよく生きることが出来たならば、少なくともその瞬間はあなたにとって十全なものであるだろう。だったら、それでいいんじゃないだろうか。

それに飽き足らないなら、こう書かれている――「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」*2、「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。」*3

*1:「伝道の書」日本聖書協会・口語訳1955年版, 1:11

*2:ibid. 12:1

*3:ibid. 12:13