かねやすまで

「どこまで東京」id:dokomadetokyo というよりは、ブックマークコメントを見ていて思いだした話。

以前ちらっと書いたことだが、わたしの母方の祖母は神田の出だった。紺屋町の染物屋の娘で、それなりの店構えではあったらしい。山形は鶴岡から丁稚奉公に来た祖父が暖簾わけして、御徒町の竹町に洗張屋を出したのと、一緒になった。祖父は仕事が丁寧で、下谷警察署の署長さんの仕事もしていた、仲人もしてもらったのだとか元気な頃自慢話をきいたことがあった。

戦争でその小さいながら静かな生活が一変した。まずクリーニング用の機械などの金属用品が供出でなくなった。空襲が激しくなって、みなは祖父の実家に疎開した。祖母にはつらい時代だったらしい。そうして戦争が終わって、家は実は焼けていなかったにもかかわらず、一家は行き場を失った。

疎開中に誰かよその人が入り込んでいたのだ。

当時の東京であるから、土地は地主のもので、家作だけは新しく建てた。ちょうど百円だか千円だかだったと聞いている。だから建物は祖父の名義だったが、人がいたのではばかったのだという。「その人も行く場所がなくなっちゃうからねえ」と祖父は後年いい、祖母はそのたびに「おじいさんは人がよすぎるんだよ」と怒っていた。そうして、譲ったあと行く場所があればよいが、そういうものでもなく、祖母の実家でもできることがそうあったわけではない。そのうちに戦災者対策で、青山のいまはブルックスブラザーズの裏にあたる場所に、戦災住宅というのが立つことになった。いまでこそ鉄筋コンクリートの5階建ての建物だが、戦後すぐであるから木造の長屋である。庭もついて、そう悪いものにはわたしの目からは見えないのだが、しかし祖母は東京の人であるから隠田(いま青山といっている場所は昔は隠田 おんでん といった。浮世絵などにはこの名で出てくる)などは地の果てへ行くような気がしたらしい。行き場がない状況でなかったら、到底引っ越さなかったと思われる。

当時は青山通りにも商店などそうは多くなく、そうかといって江戸時代とは違い周りに農家があるほどではもはやなく、微妙に中途半端な場所だったらしい。闇米など買いに郊外へいくときには省線を原宿から乗り降りするのだそうだが、表参道の周りなど何もなかったそうで、竹下口から駅を出ると、当時は原宿駅というよりは明治神宮前の交番から丸見えだったそうで、それを警邏に咎められる前に米を背負って住民は竹下通りを駆け抜けたという。

そのうちに、祖父は本業である洗張屋の再興を諦め、国分寺の工場へ勤めに出た。高度成長期のことでもあり、中央線の沿線に家を建てるという話が出た。そのとき建てておけば、国分寺市小金井市かあたりで、いま相応の値になったろうし、それはおいても祖父の通勤はだいぶん楽になったはずである。しかし、その話は流れた。祖母が大反対したのである。隠田の暮らしにようやく慣れたところで、多摩は国分寺など、祖母にとっては想像を絶した鄙であって、そうして疎開でどれだけ嫌な思いをしたのかはわたしの知るところではないが、田舎は嫌だというのは祖母の脳裏に深く刻まれたのだろう、祖母の反対をみて祖父はその話を諦めたそうである。

ふと、そんな話を思い出した。