我信ずは真である――科学的に

ただしもし論理学が科学であるならば(そうしてたぶん多くの人はそれに同意するだろう)。

私は神を信じる。天と地の造り主を信じる。主なるイイスス・ハリストスを信じる。聖神を信じる。聖にして一つの公なる使徒の教会を信じる。これらの言葉は真実であると知りなさい、なぜなら私はそう信じているからだ――だから、私が神を信じるという、その詞は真である。

近代論理学と古典論理学を分かつ概念のひとつは命題の階梯だ。クレタ人のパラドックスパラドックスであったのは、たんに自己言及命題だったからではない――むしろ「XはAである」と「XはAであるとYはいう」の論理的構造の違いを古典的枠組みが把握しきれないところにパラドックスが生じた(カントのアンティノミーじゃないが、パラドックスのなかには命題の性質を無視したところで命題を操作することで生じるものがある)。

繰り返す。「私はAを信じる」、書き直して「Aがあることを私は信じる」という命題は、私がAの存在を信じ、かつ私がAの存在を信じているときに限り、真である(タルスキーの真理定理も参照せよ)。ここからいえることがひとつある――Aの存在・非存在は直接にはこの命題の真偽に影響しない。ここで問われているのは私がAが存在するという信念内容をもつかどうかなのであるから。

宗教的信念の正しさとはそういうものであると私は考えている。それは学的態度をもって世界を見ることと自体には矛盾しない。どちらも世界に対するコミットメントだが、そのありようは違うのだ。二種の違いをわきまえている者にとって、宗教的信念の妥当性に科学的真を装わせる必要はない。疑似科学が宗教だという言動はときどきみるが、そういう人はあるいは科学だけでなく宗教についても何も反省したことのない人なのではないだろうか。

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