天皇号と院号

あるブログで「後深草天皇はいても深草の名のあるみかどはいない」という趣旨の呟きがあって、天皇号だけをみるとたしかにそうなんだけど、この場合は誰かの別称だろうなと思い、調べてみると平安初期の仁明天皇の別号だった。勅撰和歌集の詞書にはこの名で出ることがあるらしい。

この手の別号で私になじみあるのは

ですが、ウィキペディア日本語版の「天皇の一覧」をみると他にもいろいろあるようだ。曰く、柏原天皇、西院の帝、田邑の帝(田村とする本もある)。誰が誰かはウィキペディアのリストでご確認ください。こういう異称のある人は平安初期までに多いようだ。枕草子や和歌の本などを呼んでいると、こういう別称のほうがむしろ頻出する。漢字がちに光孝天皇というより「こまつのみかど」と呼びたいということだろうか。

いまでこそ歴代の天皇をそれぞれ某天皇と呼んでいるが、これは割合に新しい習慣で、明治までは院号で呼ばれる人と天皇号で呼ばれる人は確然と分かれていた。村上天皇までは天皇号、なにがしの帝という別称で呼ばれることはあるが基本は「天皇」「帝」と称せらるる。そのあと冷泉天皇からは基本的に天皇とは呼ばず、冷泉院、円融院等々と称した。だから中世の人にとって後小松天皇というひとはおらず、後小松院があった*2ウィキペディアにもこの辺りのことは出ているが、http://www.toride.com/~sansui/posthumous-name/mokuji05.htmlはさらに詳しくこういった諡号追号を論じていて、興味深い。

このサイトのことは猫猫先生が言及していたので知った。だいぶ前に途中まで読んで忘れていたのだが、最近源氏物語に言い及んで(私は光源氏が嫌いだった - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake)、またこうした話題に出会う、これも何かの縁かと思うので、読み直してみたいと思っている。

*1:誤記ありなおしました。おいおい、と自分で突っ込んでおく。

*2:ただし安徳天皇は当時から天皇であった。また後醍醐天皇は自ら号を決め天皇を称した。明治まで、この二人以外は、平安中期の冷泉天皇から近世の後桃園天皇まで、すべてなにがしの院と呼んだ。