宗教を語る、その立ち位置

このところ宗教(とりわけキリスト教)について書く機会があり、そうしてその一連のやりとりのなかで、あんとに庵氏から私の自己表明について厳しいご批判をいただいた。あちらこちらに散らばったそのやりとりを詳細に語ることはここではしないが*1、その一連のやりとりをまとめる形で、次のエントリをいただいた。

洗礼を受けていないと宗教は語れないか?(追記あり) - あんとに庵◆備忘録

いただいた一連のご意見には思うところがあり、はてなダイアリーのプロファイルを若干修正している――が、これは試行錯誤中で、そのうち変えるかもしれない。
変則的だが、上のエントリについてのお返事はすでに簡単に別のところに書いた。氏がそれを読まれたことを私は知っている。しかし第三者の運営する場で続けることでもないので、なにかついでコメントなさりたい方は、できればこのエントリへコメントいただければありがたく存じます。

さて、その上で、少し言葉を補っておきたい。

私の宗教的な立ち位置を明確にする、というなら、いうことは一つである。私は正教の啓蒙者である、すくなくともそうでありたいと思っている。もう少し細かくいうと日本ハリストス正教会に(不定期に)かよって、聖書とキリスト教を学んでおり、将来はそこで洗礼を受けたいと思っている。そして、それは同時にわたしがまだ正教徒ではないということと同義である。

私が正教徒ではない、というのは自分の認識であると同時に、私がまだ属してはいない正教徒コミュニティの認識でもあり、そのことを私は個々の生活の場面でたびたび知らされている。全面的なコミットメントを表明しないというのは、むしろその境界を守ることへの敬意であり、自戒である。ある種の遠慮と呼ぶひともいるかもしれない。そして、そのようなものとして、わたしは自分の言葉がまずは個人のものとして聞かれることを望む――信者のことばと誤解されるよりは、信者ではないということを知っておいてもらったほうがまだよい、そういう思いもある。

秘蹟カトリックが呼び機密と正教が呼ぶ mysteria のことを、あんとに庵氏も書いていたが、信者とそうでないものの間には大きな壁がある。その向こうを私はまだ知らない。もとより言葉がすべてを語りうるとは私は考えていないけれど、体験していないものを語るべきではないと考えている。とりわけ、それがたんなる象徴的な身振りではなく、実体的 real な何かであると私が予感している以上、何を云い出だすにせよ、私が語りえないものがそこにあると私が認識していること、それをまず第一に表明しておきたいという思いはある。もちろん、信者ならそれを語れるかといえば、否定神学の長い伝統が示すように、そういうことではないのだろうが(その不能は理論的には私にも理解できる)、しかし信者と啓蒙者(求道者)が感じまた見ているものが同じかどうか、それは私がいうことではないとも感じている。

もちろん、その二者の区別というのはあるいはまず観念のうちにある区別なのかもしれないけれど、そのような区別を立てる正当性を私は理論家として自分の実感を通して感じており、その境を曖昧にはしたくはない。論弁的な理性の力は、分かつ力、分節する力のうちにある。どのような些細な違いでも、わたしはそれを粗末にはしたくない。その狭間を超えるにしても、あるいは深く降りていくにしても、事象の間の亀裂というのはそう簡単に無視してよいものではない。そうして、理論の上で、また実感の上で、信者と啓蒙者の間には何か超えられない壁がある――少なくともそのように私は感じている。

一方で、あんとに庵氏が適切にも指摘したように、啓蒙者であると(あるいは西方教会なら求道者であると)表明することは、それ自体がひとつのコミットメントとなる*2。平らに、教会でよくいわれる語法でいえば「勉強している」ということは、すでにその道を歩み始めているということであろう――個人としてはそのように希望する。そうして、そのような勉強中の者をほとんど信者さんと変わらないように迎えてくださる方もいて、そのご好意に感謝しつつ、いつか真にその共同体の一員となることを自分としては願うのである。

信仰者としては上に書いた通りだが、もう一方で、私にはドイツ観念論研究者としての思想史へのコミットメントもある。そのことがまた私をやや躊躇させる。いやルター派には申し訳ないがあまり魅力を感じないのだがそれはおいて、そのことはたぶん私のキリスト教観に大きく影響しているのだろうと思う。思うというのは、自分ではまだ自覚しきれていないからなのだが、それだけに水面下の岩礁のようなその無自覚なバイアスをいっそう警戒しより自省すべきなのだと思っている。

一例を挙げる。シェリングにはカトリックについて直接言及している箇所があって(彼は牧師にこそならなかったが、ルター派の神学校にいって神学のマギスターを取っている)、わたしなどからするとそれはなんとなく納得して読めてしまうのだけれど、カトリック系の思想史研究家にいわせると「シェリングカトリック教会観はルター派的な見方に大きく影響されている」(A.Alborn)のだそうで、とはいえ私はその微妙な差異をまだ自分のものとしては把握できていない。その無自覚を私は自らの危うさと感じる。差異とされているものを把握した上で、自分の意見をもつ(それはほんとに差異なのかどうか)という以前のところで、自分が止まっている、それは危うさ以外のなにものでもない。

教義史やなにか、書かれたものについて引用してしゃべるのはいわば容易いことだが、自分のなかにある、あるいはテキストに内在する先入観に対して、自分の眼はまだ開かれていない、そういう限界からわたしもまた喋っている。わたしの言説もまた、無記中立なものではなく、そのような危うさのなかに捉えられている。東方神学的なものに惹かれるとはいえ、そのような無自覚な西方プロテスタント的思考の枠組みに私の視野もまた捉えられている可能性をもっている――そしてそれはルター派にとどまらず、わたしが幼少期を共に過ごしたキリスト教新宗教からの影響でもありうる――ということを、自戒を込めて記しておく。

Inspired by:

関連エントリ:

*1:我々ふたりのブログエントリだけならともかく、第三者のブログもあるので、ちと言及をはばかる。

*2:啓蒙者、求道者、ともにギリシア語のカテークメノス(κατηχουμενος)の訳語である。直訳すれば「教えられた者」で正教の訳が若干直訳に近いか。