客の作法・亭主の作法

「鰤さんのコメントですら、私は応答する必要がない・価値がないと思えば応答しません」って君はほんとにいらんこといいだな、これ普通は気を悪くする場面だろうし、実際私もさして嬉しいわけじゃないよ。こういうことは普段わたしは表に書かないのだが(そのことを君は知っていると私は期待する)、二日たってじんわり怒りが湧き続けていることに気がついたので、爆発する前にここに記しておく。いわれていることを否定はしないが(言い方を少し変えれば、それはわたしの行為の規範でもある)、物にはいいようがあるので、君も少しはそのことを学んだほうがいい。

とはいえ実際には、わたしが価値を置く多くのものに君は価値を認めていなくて、またその逆も真なので、そういう場面はもっと沢山あっていいはずなのだけれども、それでも君は丁寧に返答してくれることのほうが多く、わたしは君と対話するのが好きだ。たぶんこういうことは、主義主張の問題ではないのだろうね。以上私信、人が読んだら蛙になれ。

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先週、ブログのコメント欄ということについてずっと考えていた。直接のきっかけは自分のエントリの関連エントリとして指し示された、ある古い議論 (id:ululun:20060428:blog060428)。なんでも「ブログのコメント欄にブログ主は返事をするべきかどうか」ということをめぐって1年前にはてな界隈で議論があったようだ。面白かったのはブックマークコメント (b:id:entry:01837650) でコメントする読者を「客」と呼ぶ人がいて(id:kanimasterさんだったろうか、精確には「接客態度」)、それにid:yukoさんが反発していたということ。

金を対価にして受けるサービスと、ブログの読者へのもてなしを同一視できないという点ではわたしはyukoさんに近いのだが、しかしそれでも何かがひっかかった。そのことについて、微熱でうつらうつらしながら考えていた。

いま思う。ブログの読者も、また客なのだ。しかし個人ブログの場合であれば、店の顧客としてではなく、いわば私邸をおとずれる客として、読者は客なのだ。だからそこには「お客様は神様です」というような権利としてのもてなしを要求する余地はないように思う。むしろ対等な個人として相対し、主人に客を礼節を持って扱う義務が生じているのと同じ重みで、客の側にも主人に対して礼節を尽くす義務が生じるのだと思う。

私邸であれば、客は一般には亭主が招いたもの(招きがないのに訪れるのは無作法なことである、と私は教えられた)。「午の下刻、御茶など差し上げたく一筆参らせ候」云々といってよこしたものに応じたならば、それは客の側にも一定の期待をする余地はあろう(それを権利とは私はまだいいたくない)。しかしそれでも客には客の作法がある。冒すべきでない事柄があり、支度すべき事柄がある。例えば亭主がおいた結界の奥へ踏み込むことは客に許されていない。俗世の柵を忘れ天地の境に遊ぶにしても、そこには一定の規矩がある。ましてブログの読者というのは、とくに招かれてその文を読んでいるというわけではない。無記名な多数の他者へ差し出されたものを、たまさか目にしているというに過ぎない。その意味では、ブログの読者は招かれざる客である。

ブログの亭主としての開設者には、自分の設定した場を統制する権利と義務の両方が存在している。コメント欄が開放されていて、読者はコメントすることが出来る。その場合に、ブログの開設者には、コメント欄をおく権利と同時に、個々のコメントへの対応を決める権利と義務がある。たとえば招かれざる客が歓迎すべきでない振舞いをするとき、それを掣肘するのは亭主の役目だろう*1。ブログの開設者の対応は、除去であったり、無視であったり、応答でありえて、ただそのことを決めるのは読者ではなくブログの開設者にのみ属していると私は考える。それは別のブログからTBを打って応答を書く場合に比して考えれば、おのずと明らかであるように思う。

読者にはコメント欄にコメントする義務はない。そうであれば、コメントは読者の純粋な好意として行われている。そこで、その好意にどう対応するかは応じる側の自由にかかっている。仮に、どのように応じるべきかが既に指令されているならば、それはもはや好意から出た行為とはいえないだろう。それで、どのように振舞うのかが指令されていない以上、ブログ開設者のほうにも何かをする義務はない。コメントに返答するのも、しないのも、ブログ開設者の自由である。読者への義務としてではなく、ブログ開設者の自由な意志によって返答が与えられる。どちらも義務としてではなくただ自らの心の欲するままに、与え、受ける。そのなにものをも惜しむことのない往還のうちに自由な個の間のコミュニケーションの尽きせぬ喜びが生じる。

わたし自身も他人のブログにコメントをときどき残す。返事があればやはり嬉しい。それで自分でもブログにいただいたコメントに返事を書くようにはしているが、しかしそれを義務だと思ったことはない。わたしのコメントに返事を書くことがブログ開設者の義務ではないように、わたしもまた応答の自由を確保しているのだと思っている。否、沈黙が沈黙として聞かれるなら、それもまたひとつの応答なのだ(そうでないとすれば、わたしは/あなたはなぜそれを沈黙だと解釈できるのか)。そのような応答の自由、発話の自由こそが、壺中天のようなブロゴスフェアの言論の空間を――少なくともわたしが書いているこのブログやあるいはブックマークコメントの後景を――なりたたさせているのではないかとも思うが、そのことについてはまだ思考が熟していない。ブログに、ブックマークの言語空間に遊びながら、ゆっくり考えていきたいと思っている。

関連エントリ:

一日一チベットリンクhttp://tibet.cocolog-nifty.com/blog_tibet/2009/02/post-484b.html

*1:われわれの現実世界であれば、なぜそのような人の闖入を招いたのか亭主の責任も問われようが、「誰でもがコメントできる」というネット上メディアの性質上、統制が事後的であることは問題にはならないと考える。