お祈りと所作

シナイ山にて。聖体礼儀の後、明るい朝の光が高い窓から差し込んでいる内陣、ご案内くださった修道司祭さんの後をついて、その側廊を歩いていたとき。英語で、その神父さんがおっしゃった。「あなたはロシア人と普段行き来があるの?」

最初なんのことだかわからなかったけれど、すぐ、神父さんが続けた。「あなたがお祈りをするとき(といって神父さんは十字を画いた)、ロシア人のようにお祈りをするよねえ」それで何をいわれたのか見当がついた。たまたまその数日前にウィキペディアの記事で十字を画く所作について読んだばかりだったからだ。

お祈りをするとき、十字を画く。正教徒のその所作の伝統にはギリシア系とスラヴ系の大きくふたつがある。お祈りの所作にいくつかあって、軽いものは会釈のように上半身を軽く折るだけから、叩拝といって身体を沈めて頭を床につけて拝するものまで、いくつかあるが、スラヴ系では(日本の正教会はこの流れに属している)身体を折りつつ十字を画く。対してギリシア系では身体を一度沈めて起こすそのときに十字を画くとウィキペディア英語版のその記事は云っていた。いわれてみればいま終わったばかりのお祈りのなかで、ギリシア系の伝統に属しているシナイ山の修道士たちは、確かに、身を折るときにではなく身を起こすときに十字を画いていたのだった。

「日本の正教会にはスラヴの伝統が濃いのだと聞いています。聖ニコライがロシアから来られた方でしたし……。自分が通う教会にもスラヴ系の方がいらっしゃいます」神父さんはにこにこと私の返事を聞いていて、「ああそうか、そうでしたね。あなたは日本から来たのだったね」と相槌を打った。

しかし私が言葉を継いで「ギリシア系の伝統では十字の画き方が違うのだと読みました」というと、神父さんが大きく手を振って「そうではない。そうではないんだよ」といった。神父さんはそのまま歩きながら、このようにいった。「違いはないんだよ。ギリシアからロシアへキリスト教(Christianity)が伝わったのだからね。同じなのだよ。ただわたしたちはこう(とギリシア風の所作をして)十字を画くし、ロシア人たちにはロシア人のやり方がある。でも同じキリスト教なのだよ。違いはないんだ」。にこにこしながら、しかしはっきりとした言葉に、私は少したじろいだ。どこかで「しかしそれはやはり所作の違いなのではないか」と思う自分がいたが、神父さんの柔らかいながら決然としたことばは、私に抗弁を許さなかった。そうしてその話をしながらすぐわたしたちはシナイ山の聖堂の大きな扉――ユスティニアン帝の寄贈だという――までやってきて、私はそこで神父さんに祝福を乞い、そうしてわたしたちはそこで別れた。

その二つの所作についていわれた「違いはないんだよ。同じキリスト教が伝わったのだよ」という言葉が折々に思い出されて、そのたびに私は考えこむ。その神父さんがそういったことの意味について、その二つは「違わない」と云うことの意味について、考える。それはあるいは、「同じ一つの神に、同じように祈る」ということの内実について、考えることなのかもしれない。答えは、まだない。