カミングアウト

超あるある感とともに読みました。引用したブログエントリ、大事なことがいわれているので、立場の違いはともかく、ぜひ多くの方に読んでほしい。

端的な答えから言うと、カムアウトされた時に、全てのシチュエーションで使える、“正しい対応”というものはない。

鬱を告白された時や、拒食嘔吐を告白された時、トランスセクシャルであることを告白された時、難病を告白された時などに「全てに通じる正しい対応」が存在しないのと同様に、同性愛をカムアウトされた時にマニュアル的に適応できる「正しい対応」というものはない。

どうやってセックスするの?っていうのが、無礼に響く関係もあれば、そういう話をかえって聞いてほしい場合もあるかもしれない。男とセックスしたくないの?ってことについて語り合いたい場合もあるかもしれないし、そんな話したくない相手だっているかもしれない。

結局、同性愛のカムアウトの場面に限らず、人間と人間が何か隠していたことや、聞き辛いことを告白された場合、相手へのリスペクトを失わないようにしながら、丁寧にコミュニケーションを取っていくしかないだろう。相手がカムアウトしてきたのか?もっと話したいのか?話したくないのか?何を聞けばいいのか?何を聞いてはいけないのか?もし自分の反応が「あっていた」かどうか不安なら、相手に聞いてみればいい。相手と人間として充実したコミュニケーションができているならば、それはきっとカムアウト後の反応として一番理想的なものなのではないだろうか。

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すこし長めだけれど、これはひとまとまりとして誰にでも読んでほしいと思ったので、そのまま引用した。以下は感想というにはあまりにもまとまりがないが、思ったことども。

「あるある」というのは、自死遺族として、また40代の無職の年金生活者としての(諸般の事情でそうなのです)自分の生活と重ねてそう思うので、あるいはそうでない、挫折ということをまるで知らない人にはあるいは同じようには響かないかもしれない。だけれど「全てに通じる正しい対応」はないというのは本当にそのとおりだ。ある詞が、ある人の口からあるときにある場所で発せられるときに起こることがあって、それを基礎付けているのは、そうした「いま・ここに」その人とあるということだけでなく、そこへ至らしめた自分とその人との関係性、そして話題になるのが第三者であれば、さらにそのもうひとりの人も含めた三者の関係性なのだと思う。だから抽象化された「全てに通じる正しい対応」というのはない。

相手を信じているいないという単純な問題ではない――カムアウトする自分のことだけを考えても、事態は十分複雑だ。自分のなかで消化されていないことを言語化したくないというときも人にはあって、だから心を許し信頼する人に対してであっても、核心となることどもについてはそれまで語らない・語らないということはありえる。その一方で、カムアウトする自分が発するその詞が、まったくおなじ詞ではあっても、あるときはごく気軽にたんに応答の運びのなかでいわれることもあれば、それをいわなければいけないという内心の衝動を矯めつつ折を探し、そうしてようやく発せられるということもある。いろいろなことが複雑に絡み合って、だからカムアウトする仕方にも「正しいカムアウト」というのはない。

だけれど「嬉しい受け止められ方」というのはある。確かにある。それを正しいとはわたしは呼ばないけれど――この人には受け止められていると確かに感じる瞬間がある。それは私が感じている重みとは当然に異なるのだろうけど、同情とも共苦とも呼ばれうる何かが感じられることが観えて、その深いまなざしのうちに、吐息のようでもある応えのうちに、この人にはこの人の生があり、この人自身の痛みを耐えているのだということが、その生と痛みの内実はまったく私には不可視のものとしてとどまりながら、なお私にも感じられる。そういう瞬間がある。わたしが不思議にながらえて来たのも、そうした多くのまなざしに支えられてだったと改めて思う。

たまたまなのだろうと思うけれど(だからそれを僥倖といってもよいだろう)、わたしの周りにいた人たちは、とても親切なよい人たちばかりだった。それでも何か口に出来ないこと、咽喉がふさがったようになること、胸にちりちりと何かが焼かれるように感じることはあって、だから世人一般に対してカムアウトするということは、容易に勧めたり励ましたりできるようなことではいっそうないのだろう。それでも、私の場合は、結局はおこったことども・身の上におこっていることを口にのぼせてしまうことが、結局は自分を楽にしたと振り返って思う。秘密を抱えて人と付き合うことは容易なことではない。その意味で、以下に引用する部分もまた、同性愛カムアウトだけでなく、いろいろな場合にあてはまるだろうと思う。わたしもまた、ある局面では、大きな勇気を必要としたことが、なかったわけではなかったので。

でも、大抵の場合、カムアウトするっていうのは勇気がいる行為だと思うし、誰にでもするわけじゃないから、そんなに仲良くないのにカムアウトされたというのは、結構相手から信頼されているとか、もっと仲良くなりたいと思われているとことだと思う。

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ことさらに重大なことだと受け止めてほしいわけではない。ただ自分はそうなのだと知ってほしい。その上でいまの自分が出来上がっていろいろなことを感じ考える、それを分かち合いたい。その気持ちは夫が自死したことを、あるいは無職であることを打ち明けるときのわたしの根底にあったと思う*1。力点はカムアウトすること、その状態を知らせることにではない。むしろそうした自分の生活から出てくることを、その人に伝えたい、共有したいということのうちにある。少なくとも、わたしの場合はそうであった。だからカムアウトを聞く側の方には申し上げたい――伝えられた事実にあまり拘泥しないでほしい、それよりは素直に感じたこと考えたことを返してほしい。これも引用した記事でいわれていることではある。

その上で、これもやはり云っておかなければいけない。微妙な反応というのは、やはり存在する。なかには以後ぴたっとメールを返してこなかった人もいた(もともと付き合いの深い人でなかったのであまり気にはしていないが、もちろん喜んでもいない)。だけれども、カムアウトもまた、他のあらゆる他者とのコミュニケーションと同じく、結果の予測できないものではある。だから、そうした反応に傷ついたときに――誰かへのカムアウトがうまくいかなかったと感じられたからといって、あまり落胆しないでほしい、と、そういう立場にいる人には呼びかけたい。そうして、人間関係というのは、その場その場だけではなくて、時間のなかでゆっくり変容し熟成していくこともあって、だからその場で微妙な、あるいは端的に歓迎できない反応が返ってきたからといっても(たんにそのひとはびっくりしてしまっただけかもしれない)、つねにそれですべてが終わるわけではないのである。

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*1:あるいは自分がエホバの証人の信者の子として育ったことを打ち明けたときにも。もっともそれはかなり前のことだけれども。fj.* の頃からの私の読者の方なら、ご存知のことではある。