イタリア紀行

一九九九年三月。

ウィーンからの夜行列車、心地よい揺れに目が覚めると車窓からの景色はどこか潤んで緑の色も優しく、昨日までいた北の国とは違って、イタリアに入ったのだなと分かった。紅茶とパンにオレンジジュースのパックが付いた簡単な食事を車掌が運んでくる。パンは小ぶりのをふたつ、ほんのりと温めてあって、こういう基本的なところを揺るがせにしないのはヨーロッパの旅の愉しみのひとつでもある。

海の上の長い橋を渡る。窓の外に霧が濃くなる。ヴェネツィアに着いたのは8時近かった。駅の近くの両替屋でトラベラーズチェックを現金に換えた。まだユーロに切り替わる前で日本円で作っていった記憶がある。人から聞いていたように、ヴェネツィアではドイツ語が通じて、イタリア語が全く出来なかったわたしは少し安堵する。大運河を水上バスで抜け、リドへいって、バールでコーヒーを飲みながらおしゃべり。散歩をし、市場でイチゴを買ってそれが昼食代わり。市場の陽気なシニョーラもドイツ語を話した。昔のオーストリア領だからか、それとも観光都市だからなのか。

目当てだったカラヴァッジオをとある教会で見たあと、パドヴァへいって宿へ入る。宿の周りをぶらぶらして、広場に大きなお堂があって大聖堂かと思ったがパドヴァの聖アントニオの堂なのだと書いてあった。内陣の左手脇に礼拝堂があって、遺体が安置されているらしい。信者さんはそこへ出たり入ったりして、熱心にお祈りしていたけれど、ただの観光客であるわたしたちふたりは少し離れてそれを眺めていた。

教会の入り口に小さなパンフレットがおいてあった。堂の由来がイタリア語ともしかしたら他のいくつかの言語で書いてあったかもしれない――というのはそれをなんとか読めた覚えがあるので――「なんて書いてあるの」と彼が聞いた。「失せ物探しの守護聖人だって」「じゃあ君の守護聖人だね!」彼は嬉しそうに云った(彼に云わせると私は「失せ物の天才」なのだった)。

パドヴァの旧市街をやや道に迷い気味に歩いて、あるいは市庁舎前の大きな広場にいったのもその夕暮れだったろうか、次の日の朝ごはんにリコッタとやはりイチゴを買ったおぼえがある。イタリアのイチゴは小粒ながらよく熟れて甘く、つややかな赤い色が瑞々しかった。偶然に見つけたピッツァ屋に入り、ピッツァを一枚頼んで二人で分け、それから宿に帰って寝た。

宿で、わたしたちには珍しく口げんかをしたのだが、それがいつだったかは覚えていない。あるいは夕方に旧市街へ散歩に出る前だったかもしれない。ローマの宿をまだ取っていなくて、その電話を誰が掛けるかでちょっとした口論になったのだった。前泊のウィーンで、ウィーンの人は英語をほとんど話さないものだから――いまおもえばこちらがドイツ語でまず話しかけるのがまずかったかもしれない――勢いコミュニケーションは私の担当となり、それでストレスがゆっくり溜まっていったのかもしれなかった。さらにパドヴァではドイツ語がまったく通じず、英語も通じないことが多くて、それでわたしの神経は焼き切れたらしかった。海外旅行は二回目だったが、ことばが通じないところへ来たのは初めてで、そうしてそのことは予想していた以上に負担になっていたらしかった。喧嘩のあと、「英語で話すなら君にも出来るだろ」とわたしが切り口上でいい、彼が「わかったよ、やればいいんだろ」と返し、二人ともむすっとした中でガイドブックでみつけたローマの宿に彼が電話をかけ、部屋が取れたところで、さっきはごめんね、と互いに謝り「次に来るときはイタリア語を覚えなくちゃね」と小さな約束をした。

パドヴァへ来たのはスクロヴェンニ礼拝堂のジオットの壁画を見にきたのだった。礼拝堂へは翌朝いった。いまは市の博物館の一部のようになっていて、しかし礼拝堂は別料金で、厳重に仕切りがしてあった。ドイツ人の修学旅行なのか、あの狭い礼拝堂にやたらに沢山ドイツ語を喋る少年たちがいて、ついおととい出てきたばかりのウィーンへ戻ったようだったのもおかしかった。わたしたちのもたいがい過密な日程で、パドヴァでは他のものはみず、そのままローマへいった。ローマへは列車で行くのだが、旧市街から駅へは少し距離があり、市営のバスを使った。イタリアではバスの切符は乗車前に買わなくてはいけないのだが、わたしたちはまだそれを知らなくて、降りるときにイタリア語しか出来ない運転手と微妙なやりとりをしたあと、運転手は大きく手を振って「いいからおりたおりた、金はいらないよ」のようなことをいい、周りの乗客も「あんたらいいからおりなよ」と促してくれた。降りたあと、わたしたちはふたりで「悪いことしちゃったね」と呟いたのだった。

ローマには数日いて、ヴァティカンへ行ったり、ナヴォナ広場へいってガイドブックのお勧めのジェラート屋へいったりした。みたいところは沢山あったのだけれど、ちょうど滞在の中日が公共施設の休みの日で、イタリアの国営や市営の博物館の類はみなしまっていた。そんなわけで、わたしたちはトラヤヌスの市場やフォロ・ロマーノなどは少し未練がましく遠くから眺めただけだった。そのかわりに、地元のゲーム屋にいって――とくに探したわけではないのだが、なぜか我々はそれをいつも見つけてしまうのである――イタリア語版の北斗の拳セーラームーンを買ったりした(イタリア製のTRPGとして喧伝される北斗の拳RPGもほしかったのだが、たまたまその店には在庫がなかった)。

彼は牛乳や乳製品が大好きで、行く先々でイタリアのおいしいミルクやチーズに子どものように頬を上気させていた。大の大人がバールに座って、コーヒーでも酒でもなく「ミルクください」というのは少しおかしかったが、メニューには書いてないところでも頼めばミルクを出してくれるところばかりで、それは私には少しありがたかった。たまにはミルクではなく赤い色をしたシチリアのオレンジジュースを頼んだ。これはオレンジをふたつに割ったのを、その場で絞ってくれるのだった。

ローマを離れる日、フィウミチーノ空港へ向う列車の中から、郊外のありきたりのどちらかといえば薄汚れたアパルトメントが眼に入った。線路際に、桜の木が数本、三月の半ばだったけれど七分咲きくらいに咲いて、その根元には菜の花が鮮やかな黄色をみせていた。
「ねえ、引退したら、イタリアに住もうよ」
唐突にそんなことばが私の口をついて出た。わたしたちは日本の生活を、その風土と文化を愛してはいたが、彼はその少し前から仕事の制度の上でのいろいろなしがらみや書類書きや何かにときどき不満をもらすようになっていた。いまから思えばあれは職場の制度が大きくなんども変わった時期で、彼には心労の多い時期でもあったのだろう――それが後に彼を蝕み生命を奪ったうつ病とどれだけ関係があるのかは、いまの私には知りようのないことだけれども。
「いいねえ」にこやかに彼が相槌を打った。
「イタリア語おぼえなくちゃね」わたしがいうと、彼はいつものようにはにかんで
「うん。がんばる」
といった。

関連エントリ: