ウィキペディアにあることあらぬことども色々にかきつらねたる

ウィキペディアでかなり前から問題として内外に認識されていることのひとつが人名項目の妥当性で、創設者のジミー・ウェールズや前理事長のフロランス・ドゥヴォワールなどは一時期誰かプロジェクト外の人とあうたびにその人の知人や家族やあるいはご本人の項目にこれこれの間違いがあるとお叱りや苦情をいただいていたと聞いている。お叱りならばまだしも、深く静かにウィキペディアへの憎悪をつのらせる人もきっと世の中にはいて、これはなんとかしないと禍根を残すよなあということはウィキペディアのどの言語版でもそれなりに関わっているプロジェクト参加者には共有された認識にはなっている。

現役で活動されている方、あるいは物故してまだ日の浅い方に関する記述は、どれだけ注意を払っても過ぎるということがない。他人からみればなんでもない、隠す必要の感じられないことでも、ご当人やあるいはご家族には繊細な問題をはらんでいることはありえて、ウィキメディア・プロジェクトのコミュニティはそこで表現の自由を無際限に主張するよりは、惻隠の情をもって、つまりたとえ事実でありまた刊行物にみえる情報であっても正当な批評を超えた誹謗のようなことは載せないようにしようという精神でやっていくべきだ、ということをジミー・ウェールズは何度もプロジェクト内で表明していて、それはひとつには彼が経営していた会社がポルノグラフィを扱っていただの、女性問題がどうのといった公私にわたることどもを彼自身がゴシップ誌経由でウィキペディアに書かれて甚く堪えたということが大きいのだろうが、とにかく彼の主張はそうで、それには支持者も一定数はいる。もっとも彼にとって不本意なそうした記述はいまでもウィキペディアの英語版には残っていて、つまり彼に同意しない人々も一定数はいる。ウィキペディア上の現役の人々についての記述は、人情と記述の正確さとの間のそういう微妙なバランスのうえに成り立っている。英語版ウィキペディアくらい大きなプロジェクトになれば、ある種の傾向はありえても、完璧な全体主義的統制など不可能に近い。そしてそういうことはウィキというメディアの特性にもコミュニティのありようにも向いていないように個人的には思う。だから、個々の項目にはそのどちらがどれだけ反映しているのかはいろいろでありえて、確実にこうなのだと断言することは却ってプロジェクト内にいる私には難しい。いまこれを読んでいるあなたがご自身のあるいは係累の項目に満足されていないとすれば――ただ申し訳ないことですと私としては思っております。

人物項目を含め、記事についての苦情はいろいろな仕方で来る。メールで来るものがほとんどだが、財団の事務所に電話でくることもまれにだがある。あるいはご当人や関係者がノートページにコメントされたり、記事を直接編集しようとされることもある。またこれは記事ではなく、プロジェクト関係者へのいやがらせとして非公開の情報や虚偽の情報をノートページにかかれる、その苦情ということもありえる。そうした面白からぬことどもの処置ということがプロジェクトの運営にはあって、そして幸か不幸かわたしも(いろいろないことないこと書かれるという意味での)当事者になったことが一度ならずあり、まあそれなりに経験を積んだかなあという気がしないではない。

そういう一当事者――対処する側としても対処を要求する側としても――の立場と経験から、ウィキペディアの記述の訂正をスムーズに行うにはいくつか定石があることがわかってきた。それを書こうと思ったのだが、それを書くにはいまは時間が足りないのでここでセーブしておく。*1

*1:というかわたしがウィキペディア日本語版を最後に編集したのはもう足掛け3年くらい前のことで、プロジェクト内の人が最新版を書いてくれたほうが、たぶんもっといろいろな人が幸せになるような気がするのだが、どうだろうそこのとこ。