彼らが黙せば石が叫ぶ

「影響力なんか知るか」ってのも欺瞞的だな。仮に影響力を持っているのだとして、じゃーそれを行使して何が悪いの? と開き直ったほうがいいんだ、きっと。

http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090512/1242127656

違うな。正しい方向ではあるけれども。わたしならこういう――影響力は積極的に意図的に行使されるべきであり、影響力の大きな人間ほど積極的に発言すべきなのだと。行使されない力は潜勢に可能性に留まり、それはなるほど力ではあっても我々の世界に実質的な影響を及ぼさない死んだものとなる。土の中にうめた銀塊がいかなる富をも生み出さないように。

レトリックの公共的機能ということに最近かんたんに言及したが(わたしの文章修行 - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake)、コミュニケーションの媒体としての言語は公共性をつねに帯びている。たんに誰にでもきかれるということに留まらない。公衆に向って放たれることばはなんらか公衆への効果を期待して語られている。それはどのような微細なものであろうとも社会へのある衝撃を含意しており、すなわち影響力の行使がそこでの目的となる。文学の歴史をふりかえれば、古典古代のレトリックの技法がその極みに達したのは、あるいはアテナイの民主制においてでありあるいはローマの共和制においてであった。それも日常の談話ではなく、法廷という優れて社会的で影響力の大きな場にあっての言論や、あるいは悲劇というすべての市民が参与する祭礼の場において共同体の記憶をつむぐことばがそうした技法を要求したのである。言語を公に向って語るということ自体が影響力をなんらかの仕方で聴衆や読者に向って行使することを前提としており、それを断念するということはまったく沈黙せよという指令に他ならない。

むろんすべての影響(インフルエンツァ)が善きものであるわけではなく、悪しき影響ということもあって、意図するにせよせざるにせよ、ある言論が与えるその影響の実質の評価ということはつねに行われる。しかしすべての批判が妥当なわけではない。ソクラテス裁判の罪状が「青年に悪しき影響を与える」だったことを思い出そう。言論は批判に開かれてこそより公共に資するものとなりうるが、しかしすべての批判あるいはそのなかでもっとも支持された批判が同時に正当なものであるわけではない。そうして、ある特定の批判(それもまたひとつの言論ではある)が正しいのか妥当するのか、それもまた言論を用いた理性の法廷でのみ審理される。そうして影響力の大きな語り手や筆者は、ある問題により注目を集め、より開かれて豊かな言論空間をなりたたせる可能性を有している。いやむしろわれわれがある言説の語り手の影響力をいうとき、その影響力にはそのような言説空間への参与の誘惑、ある種の感染力のようなものが含意されているのではないだろうか。

これは何でも好き勝手に言い散らせということではない。もちろんない。公共的な言論の場は、それぞれに固有の語りのモードを要求する(たとえば学術的なコミュニケーションでは論証のやり方や他者の意見の引証に多くの決まりごとがある)。その文脈では「影響力の大きな語り手はその影響力を自覚せよ」という格率は、ある言論空間においてよりふさわしいふるまいをなせ、他への模範であれ、と読み替えられる。そうして他への模範ということでは、ある言論空間が公のものであり、したがって一定の規範と水準を共有するものならば誰でも参与可能であるということをみずからの実践によって示すということがまず最初に来る。つまり発言するということ、発言が可能であるということを自らの身振りによって示すということだ。

ゆえに、繰り返す。なにがしかの言論の上で影響力のある人間は、すべからく己の影響力を自覚するべきである。その自覚の上にふるまうべきである。すなわち彼らはより積極的により大胆に語るべきなのだ。無批判に無条件に沈黙することや言を控えることによってではない。むしろ語るべきことを語ることによって、議論を起こすことによって、そのような自覚は強固にされ、また他者へと示される。それは言語がもつ公共性がまた新たな仕方で展開せられるということでもある。新たな問いを立て、多くの人に共有させる、言論の上での影響力の行使とはつねにそのような招致の側面をもっている。ありうべくは、発言者自らが、より妥当であり、より真実らしいと信じることを語ることによって。そのようにふるまう人が多ければ多いほど、真理の追求は公共的なものとなりえる――沈黙することによってではなく、まして他者に沈黙を強要することによってではなく、ただ語ることによってのみ我々は真なるものを己へと招きよせることを試みうる。