2009年5月の鰤端末鉄野菜まとめ

恒例の月間まとめ、はてなブックマーク準拠です*1『鰤端末鉄野菜 Brittys Wake』 の新着エントリー - はてなブックマークから目視で拾っています。先月分: 2009年4月の鰤端末鉄野菜まとめ - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake

先月もまたブログエントリをほとんど書かなかったので、上位6エントリをピックアップしました。6って半端な数だけど、4ブクマのものが複数あったので。

  1. わたしの文章修行 - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake
  2. 彼らが黙せば石が叫ぶ - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake
  3. かわいそうだた - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake
  4. ウィキペディアにあることあらぬことども色々にかきつらねたる - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake
  5. ナタールの日 - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake
  6. ロスコをみる - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake

書かなかったのはいろいろな理由があるんですが、きっと、いや、端的に忙しかったんです。心が。まだゴールデンウィークはましだったのですが15日辺りから急激に忙しくなりました、だってこの日は斧1万5千以下カタパ含むな大部隊がクリアアタックかけてきて全10村だかに24時間赤ランプつきっぱなしだったんですよ(一部の人にだけ意味明瞭)。

アウグスティヌス (講談社学術文庫)
アウグスティヌスは『告白』のあと、引き続き『神の国』を読んでいます。アウグスティヌスの神へよせる信頼を感じると同時に、いろいろな関心に触れる刺激的な著作です。たとえば第1巻の自殺と強姦をめぐる弁論は、犯罪被害者に対して共同体はどのような支援をしうるか*2、不幸をキリスト教徒はどう受け止めるか、いろいろな関係する問題を提起する一方で、性犯罪をめぐる状況に対する理解があっても男性の視点あるいは時代の制約からアウグスティヌスの言説にも限界があるなあと感じさせ、なのでいろいろなことを考えます。そうかとおもうと第2巻や第3巻が描写する異教世界末期の祭儀状況は、使徒行伝やカピトリヌス丘にある「知られていない神への祭壇」なども思い出させて、なぜローマの伝来の神が捨てられていったのかという精神史的な問題を改めて考えさせます。わたし個人としては、シェリングの『芸術哲学講義』にある古代の多神教的・神話的世界からキリスト教の神観念とその宗教がもつ表象世界への交代についての議論ともむすびついて、ローマ末期の神表象の複雑さとわたしたちのいまの世界とのある種の共通性などにも思いを致しました。ここ数年、占いやスピリチュアルといったことが疑似科学的なものとも結びついて話題になっていますが、ローマ世界の末期もそうした新しい神々や新しい呪術が席巻する世界であったようです。あるいは、アウグスティヌスがやや苦々しくほのめかしているように、教会へ来た人のなかにも、そうした新しい流行の神のひとつにちょっと飛びついてみる、そんな人たちもいたのかもしれません。他人の信仰心など実証的に研究できるものでもないでしょし、そんな気がするだけですが。

連休と、関東行きと、ともに期せずして美術館へいき古い友人とあう機会となりました。その友人がすべてなんらかゲーマーだというのはどういうことだろう。いや、たんに我々が住んでいる世界はそういうサブカルチャーハイカルチャーが分かちがたく結びついている場だということなのでしょうね。わたしたちにとって、利休の茶を偲び仁清の茶器を愛でることや、あるいはソロモン諸島の沖で、あるいはまったく架空の地下牢で、想像のなかの戦いをすることには上下の違いはないし、また疑似古代ローマ風味な別の架空世界の結構を論じそこに生まれる遊戯者のコミュニティの統制原理を反省することと現実の政治システムをなりたたせている諸原理とその含意を吟味することの間に断絶はない――それはあるいは茶道がどこか遊戯的な交感と結びついていてまったくの「芸術」ではないからかもしれませんが、むしろそういう文化諸領域の間の価値ヒエラルキーというものがわたしたちにとっては意味がない、少なくともわたしや友人にとっては、ということではないのかなと思っています。

今月はもう遠出をする予定はありませんが、21日に三宮で「テックカフェ」というイベントがあります。そのお手伝いをして、7月以降はまた美術展やイベントなどに顔をだすつもりでいます。7月にも古い友人と会う機会がたぶんあるのかな。詳しい打ち合わせはしていませんけれど、それもまた一興、でも出来れば久方ぶりに手料理を食わせておくれ と催促はしておく。

*1:一部のエントリにはその後も、つまり今月に入ってからもブックマークをいただいたため、本日付けの集計と4月末の数字とは違うかもしれません。

*2:強姦被害者に対して「貞節を守れなかった」とする向きは古代にもあったようなのだが、『神の国』第1巻はそのような主張いや非難に対するアウグスティヌスの回答でありかつ彼自身の意図としては被害者への「慰め」である。アウグスティヌスは強姦の被害を受けること、自らの意思でない性行為をもたされることを「肉体の問題」と切り分けており、貞操も姦淫も意思の問題であるとする。そこで本人が同意していない性交としての強姦では被害者は姦淫を犯してはいないしまた貞操もけがされてはいないとする主張にわたしは共感を感じるが、一方しかしそのような出来事をたんに肉体の問題としてみる二元論はまたちょっと違うかなという気もしないではない。さらにアウグスティヌスは強姦のような不本意な性交でも性欲が起こりうるとする立場をとっているようにみえて、それは時代の制約というより、いまでも続いているような、根強い、男性がもつ間違った性的ファンタジーなのだろうなと思いもする。