ぎもん・集合知

これは、僕よりもパイプの太い情報提供先をネット上での誰かが知っているかもしれにゃーという希望がありましたにゃ。次に、同様の事態がおこることをなるべく防ぎたいということもありましたにゃ。ホメオパシーの危険性はあらゆる機会をとらえていうべきだとも考えていますしにゃ。

それで、送信内容を公開したわけにゃんね。

つまり、いわゆるネットの「集合知」と「情報拡散」を使おうとしたということなんだけどにゃ。

反省会 - 地下生活者の手遊び

それは集合知じゃないんじゃないかな(群集の叡智ではあるかもしれんが)。なぜそう思うかというと、情報を拡散したその結果なり成果なりが、共有されないから。集団の知的営為が可視化されて、集合する、そして集団の再利用に供される、そのことが「集合知」だと私は理解している。もっといい方法を知っている誰かがもっといい結果を出してくれるというアプローチ自体はわたしは否定しないが、その結果(ここでは方法)が可視化されないなら、それは集合知とは呼べないと思う。その「もっとよい方法」は個人のものとして秘教化されたまま残るだけだからね。

どうなのかな。