続・Gewaltapparat の初出?

承前

以下に書くことは Google Books 等の検索結果をまとめた私的なメモである。

「国家は…… instrument of violence*1 / Gewaltapparat である」とする定式化は広くマルクス(ときにはマルクスエンゲルス)に帰されている*2。この定式化は1960年代にはマルクス主義者以外にも広範に知られていた*3。しかしこの語はそれとしてマルクスの著作中には登場しない可能性が高い。marxists.org に収録されている、手稿を含めたマルクスの著作中に Gewaltapparat という語は登場しない。一つの可能性としては、1910年代の共産主義者によるマルクス受容のなかで、マルクスの国家観、すなわちアレントの言葉を借りれば "the state as an instrument of violence at the command of the ruling class"(Arendt (1969:1))という把握が Gewaltapparat という表現に凝縮されたと予想されるが、これはあくまでも予想である。ともかく、1920年代にはこの定式は少なくともドイツ語圏で使われるようになっていた*4トロツキーレーニンに結びつける指摘もあり、そうであればソ連においても事情は同様であったろう――毛沢東における用例は、ソ連で刊行された本への読書ノートにその本からの引用として登場している。しかしここでいう「暴力装置」は、支配階級がもつ抑圧の道具としてそのようにいわれているのであり、統治の担保可能性や政府による暴力の独占の概念と直接にはむすびついていないことは留意したい。

一方、instrument of violence / Gewaltapparat は国家が独占する暴力ないし強制力の個別的形態についても現代では使われる。そのようなものとして言及されるものとしては軍隊と警察が代表例であるが、秘密警察やときには裁判所や監獄といった司法制度の全体がそのように呼ばれることもある。この文脈での G. はしばしば複数で、そのような個々の制度を指すものとして使われる。先のマルクス主義的国家観とこの用例の間に直接の関係があるかどうかは不明であるが、1980年代にはこの用例はそれとして英語においてもドイツ語においても確立していたように見受けられる。その比較的早い例として、ここでは Brake(1970)(full title: Joseph Brake, "The Organization As Instrument of Violence: The Military Case", Journal of Sciological Quarterly, Vol. 11, No.3, Summer, 1970.)を挙げておく。たんに Google Books の収録状況を反映しただけかもしれないが、この用例については英語圏、というより米国が早い可能性に現時点では留意しておきたい――つまり日本における学生運動共産主義の退潮といったような地理的にも思想的にもローカルな状況とだけ結びつけられるような話ではないだろうということでもある。

なお当方は機関に所属せずこの手の広範な資料調査が可能な状況にはないので、この件については引き続き諸賢のご教示をいただければありがたい。

*1:ドイツ語 Gewaltapparat (暴力装置、また翻訳の文脈によっては権力機構とも)に対応する英語は instrument of violence である。

*2:例として毛沢東(1961-2)

*3:例としてArendt(1969)

*4:直接共産主義者の国家観を指すかどうかテキスト全体を未見なので筆者には不明だが、カール・シュミットは Staat als sinnloser G.とする国家観について批判的に言及している。