『憶測的起原』って感じ?
http://d.hatena.ne.jp/Britty/20040413
- 第一部と第二部のつながりが弱い。自然から社会への移行のモメントをルソーは提示できない。
- 自然状態(原始)は理想状態だが未開、ここがしぇと決定的に違うところ。
- 「自己保存」と「憐憫」(中公版、一四二頁)が人間の本来的欲求である。
- したがって「社交性」の本来性は否定される。(opp. Burke、Sublime and Beauty)。ルソーの原始状態には社交欲が存在しない=自然状態において人間の交互関係は継時性をもたない。
- 自然人は道徳的ではない。しぇとの関係(直接的影響は?)。第二部の徳論をも参照。
中公版、一四〇頁。
まずこの状態の人間たち*1は、お互いのあいだに、いかなる種類の道徳的な関係も、確かな義務ももっていなかったので、善くも悪くもありえず、また悪徳も美徳ももっていなかったと思われる。ただしこれらの語を物理的な意味にとって、個人のなかにあって自己保存を害するような特質を悪徳と呼ぶ(中略)ならば話は別である……。
- 歴史と社会の関係。
- 二部冒頭の言語論。言語と社会は交互的に影響しあいつつ発達する。
言語、技術、定住、「家庭」の誕生、「人々の知る限りでの最も優しい感情、夫婦愛と父性愛」*2さらに他の感情への発展。
- 社会が感情を生む(陶冶の二重性)。相互往来の機会の増大が、社交欲につながる(中公版、一五八頁、上段)。相互評価、「公の尊敬」。能力としての徳の発見と社会的=他者からの承認(尊敬)は「不平等への、そして同時に悪徳への第一歩であった。」(中公版、一五八頁、下段)。侮辱への報復としての「仕返し」。
一五九頁:「世界の真の青年期」一六〇頁
道徳が人間の行為のなかに導入されはじめ、まだ法律のないあいだは、……、純粋の自然状態にふさわしい善は、生まれたばかりの社会にはもはやふさわしくなかったということ、また……、(復習における:引用者注)罰がますますきびしくならざるをえなくなったこと、そして復讐の恐怖が法の拘束のかわりとなったこと、……。……にもかかわらず、この人間の……発達の時期は、……(二つの状態の中庸として:引用者注)、最も幸福で最も永続的な時期だったにちがいないのである。
- 法の発生
- 占有の概念は私有の概念に先行する。一六二頁。
- 「自然のすべての素質」一六三頁。自然的不平等の発展としての社会的不平等の出現と永続化。
- 法以前の社会(自然状態での平等が損なわれている)の混乱と(実定)法の要請。一六五‐七頁。
- 自然法と実定法(=社会)の対立:自由の制約としての法(一六七頁)。前者の国家間関係への拡張としての国際法(一六八頁)。
原注
二二〇頁
わたしは……、幸福の評価は理性よりも感情にかかわることだと答えるだろう。……。……、われわれの観念と、未開人たちがその生活様式に見いだしている趣味を理解するのに必要な精神の気質とのあいだの隔たりのほうが、未開人たちの観念と、われわれの生活様式を彼らに理解させうる観念とのあいだの隔たりよりも大きいからである。
なおルソーにおいては、観念とほとんどの感情(情念)とは社会的にのみ獲得される*3。