アンゼルモ「では彼の技芸は公教的だというわけだ」IV,231

in シェリングブルーノ
http://d.hatena.ne.jp/Britty/20040420#p6 から続く。
大屋氏書く:

問題は詩人がかくのごとくあることではなく、かくのごとき詩人の言葉を政治の場に持ち込もうとする人間がいることではないでしょうかな。菊田氏の本についてよこはまさんが指摘していることでもありますが、こういう語りを必要としており、自らの政治的言説を代替するものとして利用する人々が。

そして利用され嗤われていることに気付かぬ詩人やあわれ、彼らついには煮られ食わるるべき定めなり。そも野の鳥にして自ら楽しみ、鳴かずば撃たれまいものを。
Posted by おおや at 2004年04月21日 09:37

であれば「文学者なら、知らないこと書くな」というのはそもそも無理な要求だと認めるわけですな?

詩が公教的だということは個々の詩人の問題ではなく叙述の性格の問題だ。詩は世界を平滑に叙述するための語りではなく、詩固有の世界を提示するのが本来の機能だと私は考える*1。それが「くだらないおしゃべり」の側からみて「くだらない」か「間違っている」か、それは社会や法や哲学の問題ではあっても詩や文学に固有の問いではついにありえないだろう。げに「野の鳥は自ら楽しむ」そして我々は自ら播いていないものを刈るというわけだ。「ミネルウァの梟は黄昏を飛ぶ」。他方、個々の詩人がつねに詩的に語らなくてはいけないという社会的制約もない。個人としての詩人が詩人であることをやめる瞬間もありえる。たとえば詩人としての JWvG とヴァイマルの行政官としての JWvG は同じ仕方では語りえないと予想される。そして前者の業績と後者の業績はなんら相関することなく判断されうるし、されるべきであろう。すぐれた詩人が凡庸な市民運動家であったとしても(それは彼個人にとっても社会にとっても不幸な事態であるが)、なんら不思議はない。そしてかくのごとき場合、責められるべきは詩人=文学者としての彼ではなく、後者ではないのか*2。あれ、Theorie und Praxis には邦訳がないの?

*1:この点において、私はあの作品を評価しない。最後の二行によって、あれは詩ではなくたんなるプロパガンダ・失敗した政治寓話の類に過ぎなくなった。政治寓話として成功していないというのは、あれでは意見を異にする他者を獲得出来ないだろうと予想するからだ。あれはオルグではなく、敵と味方という浅薄な二元対立を固定し、味方以外を嫌な気分にさせるための身振りに過ぎない。プロパガンダとしても上等なものではない。そこには「現実」を参照しようとする過剰な身振りだけがあって、なんら現実への実在的な参照が行われているわけでもなく、また『泉』のような制度に対する異議申し立てや軽やかな詩的挑発であるわけでもない。

*2:もっとも私にとってはどうでもいいことです。面倒くさいし、つまらないし。