ヘロストラトスの名誉

秋葉原での通り魔殺人事件について、私が知ったのはその日の昼過ぎだった。あるSNSで、知人が、その方の知人の安否を心配しておられた。情報関係の仕事をしていて、アニメとSFにもだいぶ傾倒しているとなれば、まあ当然の心配だろう。私もまず気をもんだのは、知人でそういう場所にいそうな人の安否で、そこでテレビをつけるという気が起きなかったのはいま考えると不思議である*1

ネットでニュースをみていると、知人友人はとりあえずいないようだった。犯人が若い男だということがわかった。自分の知っている人は直接の被害を受けていないらしい、というやや短絡的な安堵感のあと、私はふっと古代エフェソスのアルテミス神殿のことを思った。そのときはまだ犯人に対してほとんど情報もなく、精神錯乱や薬物障害を疑ってもよいはずだったが、なぜかそのことが頭に浮かんだのだった。

古代エフェソスのアルテミス神殿は、世界の七不思議のひとつといわれた建造物である。紀元前4世紀に火災で失われた。火災の理由は放火である。紀元前358年、アレクサンドロス大王の生まれたちょうどその夜だったという。

放火犯をヘロストラトスという。ドイツ語版ウィキペディア "Herostratos" によると、羊飼いだったらしい。羊飼いというのは乾季の間、山野で野宿して羊の群れを飼う仕事である。楽なものではない、ということはヘシオドスの『仕事と日』などを見ても分かる。いわば東地中海世界の最下層にいた人たちである。ヘロストラトスは、しかし同時に自尊心の強い男だった、とある。そのような、社会の最下層にいるヘロストラトスが自らの名を不朽のものにしようとして敢行したのが「世界でもっとも壮麗な建造物」すなわちエフェソスのアルテミス神殿の放火だった。

エフェソス市民の落胆と怒りは予想に難くない。ヘロストラトスは死刑とされた。そしてエフェソスの市民はヘロストラトスの望んだものを彼に拒もうとした。すなわち彼の名をあらゆる記録から削ることを決議し、彼に応えたのだった。それで、その名は後世に伝わらず、ただその恥ずべき行いのみが伝わるはずだったのだが、しかし古代世界のみながエフェソス市民にそのような仕方で同調したわけでなく、キオスのテオポンポスという同時代人がその名を書き残し、ストラボン・プルタルコスキケロといった人の文章にその凶行とともにヘロストラトスの名は残ったのであった。

それきり、自分のこの脈絡のない連想については忘れていた。思い出したのはつい最近、森博嗣さんのブログ『MORILOG ACADEMY』に触れてからだ。

「夢、ワイドショー独占」の部分にTVは言及したがらない。夢を叶えてあげたことが、後ろめたいのだろうか? ネットを悪いイメージで報じたい最近の旧メディアだが、「今回の犯罪の動機は(本人が書いているとおり)TVだった」といわれてもしかたがない。3/27の【社会】を再読願いたい。

森博嗣【HR】 編集者考 」『MORILOG ACADEMY』、2008年06月10日。

頭を殴られたように感じた。どこかでこれを自分は予期していたのかと思った。そんなことはないのだが――でもそれがありえることを自分は知っていて、だから同意も同感もしないがそれは人の種族に起こりえることだという理解は出来て、そのことをあらためて怖ろしいことだと思った。そして報道を見れば、たしかにそういわれているのだった。犯人のネット掲示板への書き込みとして

 6日には「住所不定無職になったのか ますます絶望的だ」(午前1時44分)、「やりたいこと…殺人 夢…ワイドショー独占」(午前2時48分)、「誰にも理解されない 理解しようとされない」(午前3時35分)と書かれていた。
時事通信 2008/06/09-12:49 「秋葉原で人殺す」=夢…ワイドショー独占−携帯掲示板で予告か−通り魔事件


森さんは、3/27のエントリで、こういう自己顕示が動機であるような凶悪犯罪をむしろ抑制的に報道すべきだと主張している。

 もう10年もまえから何度も繰り返し書いてきた。この種の犯罪を抑制するためには、犯罪について報道を制限することが必要だと思う。すなわち、加害者の顔写真を公開したり、その生い立ちを紹介したり、親族にインタビューしたり、という報道をしない方が良い。犯行後に自殺をして、遺書を残していても、それを一切報道しない方が良い。何故なら、それらをしてほしいから事件を起こしたのであって、加害者の夢をマスコミが叶えてやっていることになる。

森博嗣【社会】 無差別殺人に対する防御」、『MORILOG ACADEMY』、2008年03月27日。 

でも、と私は思う。たとえ法でもって禁じても――言論の自由との兼ね合いが問題になるだろうけど公共の利益のために私権が制限されうるという議論は一定の範囲では可能である、だから理論的にはこのような犯罪を抑制するために言論をも抑制すべきだという意見はありえるだろう、その理論的水準と妥当性はここでは問わない――我々は第二第三のヘロストラトスを防げないだろう。なぜなら、我々は第二第三のテオポンポスをもやはり防げないからだ。自分の知ったことを、あるいは知ったと思ったことを、その内容に関わらず他の人に伝えたいということは、少なくともある人びとにとっては業病のように逃れがたい欲求なのだ*2。だから、それはかつて起こり、いまあり、そしてまた起こる。2400年前と、いま同じことが起こり、あるいはもっと悪い。自分の名を人に告げ知らせるというただそのことのために、もっとも神聖で尊貴なものを破壊するという考えを根絶するには、2400年では足りなかったのだ(この神なき現代社会では、とりわけ日本社会では、おそらくたいていの人にとって人命はもっとも神聖なものではないのだろうか。そしていくつかの信仰、たとえばキリスト教にとっても人は「神の神殿」であり、人間性は神性とある不可思議な仕方で結合することが可能であったほどには神聖なものなのである)。そうして、そのような神聖冒涜でしか己の存在を確かめることが出来ないほどの頽落を己のうちに育むのも、また人間性なのである。

もはや私はそのことにたじろがない――「我が内に腐れの種あればなり」、その意味で、犯人は我々の隣人ではあるのだ。しかし、やはりそれを悲しいことだと私は思う。このとき犯人が望んだものが「ワイドショー」での注目、個体性をもたない単なる人の集団からの対象化であったということは興味深い。犯人は恋人がいないことについてネットで愚痴を書いていたというが、そのような特定の個人との関係性への志向と、ワイドショーでの注目はだいぶん距離がある。特定の誰かに恋することと、恋人なるものがほしいという空虚な具体性を持たない欲求の違いを考慮しても、やはり距離があるように私には感じられる。さて、私たちはワイドショーの被写体たちを隣人としてみることが出来るだろうか。それはむしろ、人格的交わりの外にある、なにか一方的にみられる対象なのではないだろうか。そのことを犯人が知らなかったとは思えない。想像でしかないが、そのような細やかな過剰とも思える想像力があって、どうして今回のことをなしえただろうか。それで、事の善悪以前に、そのような関わり方を犯人が意図して選択するほどに疎外されていたということ――他者と共にあることとの完璧な断念をもって犯人がその場へ向かっていったことは、私にとって依然たじろぐに十分な事態であり、そしてまた極めて残念なことに思う。

だが、そのことよりもなお残念で悲しいことは、私たちは結局この事件の犯人の名を忘れないだろうが*3、亡くなられた7人の名は、急速に行きずりの観客である私たちの記憶から失われていくということである。すでに翌日から、哀悼されるのは「秋葉原」の事件であって、亡くなられた方々の御名ではなかった。他の幾多の殺人事件においても、我々は多く殺人者の名をのみ記憶し、犠牲者の名を忘れる。大阪教育大池田小学校の事件の幼い犠牲者の名を、あるいはサリン事件の犠牲者の名*4を、私たちはどれだけ覚えているだろうか。私は、殺人者の名を覚え、その日のありさまを報道から一日中飛んでいたヘリコプターの騒音に到るまで思い出しするのだが、しかし、犠牲者の方々ひとりひとりのお名前は私の脆い記憶からは失われている。そのことを私はなによりも悲しく、また悔しく思うのである。

*1:受像機がだいぶいたんでいて、画像が乱れるからかなあ。買い換えればいいのだが、地デジかどうか以前に夫の形見なので――下宿を始めてから、ということは出会った次の年に購入したらしい、恋人時代からそのでっかい受像機は彼の部屋に鎮座ましましていた――こう微妙にえいやっと捨てにくいものがあるのですよこれが。このままでいるとなにも捨てられないことになってしまうので、どこかで心を鬼にして思い切らなければいけないのだが。悩ましいね。

*2:そしてもちろん、私も、それほど病篤くはないと思うのだが、ともかくもこの輩に属してはいる。

*3:私は人の名前を覚えるのが苦手なのでいえといわれてももう出ないのだが、しかし見ればそれかと思いあたりはする

*4:05:58付記 http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/meibo.html に死亡被害者の方の御名前とご逝去の日付がある。12人の方が亡くなり、うち3月に9人、4月に2人、お一人は翌1996年6月のご逝去である。via http://sky.ap.teacup.com/takitaro/221.html 永遠の記憶。