なんということもない一日・払暁篇

きょう一日あったことを書いて行きます。随時更新。

眼が覚める。まだ暗い。寝なおすつもりでしばらく布団のなかでじっとしているが、いろいろとあらぬことを考えて腹が無駄にたってきたので起きる。起きると4時をすこし過ぎたくらい。 

いつものように朝支度。寝床のなかではきょうはアルトス*1を食べようと思ったけどなんだか忘れて、忘れたことに朝のトーストを焼き始めてから気がつく。ま、いいや。

こう、心がしぼんでくるのが自分でもわかって、新しいジャムの封を切った。明治屋の甘さ控えめのりんごジャム。明治屋のジャムは結構好きだ。最近は生協で定期的にセールをしてくれるので嬉しい。

熱いシャワーでも浴びようかなと思うが、もう服を着ちゃったからいいやと打ち消す。もうなにもかもめんどくさい。何かをする気が起きない。今日はちょっときちんとした行事の日なので、いま来ているセーターとジーンズで外にでるわけにはいかないのだが、何を着るかまだ決めていない。それも億劫でいやになる。喪服ってのもいまさら変だしねえ……もう7年目になるのだもの。近親者でも、喪服ってのは変だよね。とはいえ黒系の冬物のスーツって実はもっていないので、ほんとうに頭が痛い。ステッチの入ったグレーのウールのスーツがあるんだけど、それもなんか違うという気がする。まあ、あれはあったかいからそうするのが実は正しいのじゃないかという気はする。

床暖房いれてるけど底冷えがする。いま5:53。待ち合わせは市内で11:30。ブログの過去記事を整理しようかと思っていたけど、過去のエントリを見ていたらそれもおっくうになっていたのでやめる。

腹が立ったというのは、きょうの用事について。眼が覚めた後、寝室の暗がりのなかで今日の予定を反芻していたら、なんだか無性に腹が立ってきた。だって、お寺で供養で読経ですよ。なんだかまるで死んだ人みたいやん。みんなで普通の顔をして死んだ人みたいに扱って、なんなのそれなんなの、むっちゃ失礼やん――と朝まだきまだ回らない頭でじんわりと怒りが煮えてくるのを感じ、感情のボルテージがある程度たかまったところで覚醒度合いも進んだらしく「いや、実際死んでるんだから仕方ないやん、みんな悪気があってしてるわけちゃうよ」と頭の別のところで突っ込みをいれる自分がいて、これはもう起きて顔を洗ったほうがいいなあとふと冷静になった。

まだ6時前。ワードローブをもう一度点検してきます……

Inspired by:

6:10
昨日は上記エントリにいいたいこと一杯あったのだが、なんかもうとても億劫。とりあえずブックマークに書ききれなかったことだけ、いま書き留めておく。私の場合、葬儀や年祭が必要なことはわかるようにはなった。ていうかやらないと駄目だと思うようになった。少なくとも、自分にとっては。不思議なことに、正教会にかかわるお祈りで、上で書いた怒りを覚えたことはまったくないのだけど、仏事と葬儀(と死)は日本人の心性のなかで深く結びついているのか、仏事がらみのことがあると「うちのんを死んだ人扱いするなんてひどい」という理不尽な怒りがこみ上げてくるのである。
こういうことがあるたびに、心の芯の部分でまだ彼の死をほんとうには受け入れられていない自分を見出して驚く。日常のなかで蓋をしているこの感情を解放する場として、わたしにはこういう装置も必要なのだと思うようになった。
そうして、たとえ仏式でもみんなに集まってお祈りしていただけるのが嬉しいことも確かなのだ。いやまったく難しいよね。

*1:復活祭のときに教会でくれるパン。アルトスというのはギリシア語でパンのこと。卵とか入っていないので日持ちする。もちろんこの時期になるととてもとても硬い。なのであらかじめ小さく切っておく。それを水――ほんとうは聖水――と一緒に朝一番、他のものを食べる前に飲み下す。「重大なとき」に食べるんだといわれた。別の人からは「病気のときに」とも。