シスの暗黒卿がジェンダー理論に不快を示されたようです

シスの暗黒卿ことブノワ16世、俗名をヨーゼフ・ラッツィおじさんが「22日、バチカンで聖職者向けに行った年末の演説で、ジェンダー理論について、男性と女性との区別をあいまいにし、人間の「自己破壊」につながるものとして非難した」という話がAFPに出ていた(元記事)。

写真が5葉あり、聴衆である「聖職者」が写っているが、これが赤い帽子をちょこんとかぶり腰に緋色の帯を締めた坊様たち、すなわち枢機卿、高位聖職者のみが見える。そういう場での演説だということを念頭におきたい。つまり、カトリック教会を指導していく上での大きな指針を示した演説であって、世相一般について漠然と何かをいったわけではないだろうということ。

カトリック世界の消息に部外者であるわたしは事情に暗いが、ここ数十年のカトリック世界はどちらかといえば女性の教会内社会進出に寛容であった、ように思う。そもそも東方教会に比べると西方教会は女性の役割には慎重すぎるくらいに慎重で、たとえば聖歌隊に女性が入ったのも東方正教会のほうがずっと早い*1ギリシア系の正教会では女輔祭と呼ばれる教会の実務を補佐する女性の役職があり、これは古代に遡る伝統を持つ*2。いっぽう、カトリックでは教会の奉仕は厳しく男性に限られていた。これは近代とくに著しかったらしく、ジョイスの『ダブリンの市民』に、ということは19世紀末から20世紀初頭の設定で、いままで教会の聖歌隊に奉仕していた女性が司祭に参加を禁止されるという話が出てくる。

カトリック教会のいわばミソジニーが転換するのが、1960年代から始まる第二ヴァティカン会議である。現教皇はいまでこそ保守派として知られるが、元来は改革急進派として第二ヴァティカン会議で頭角を現した人である。カトリックカトリックたるゆえん、とりわけ他派との境を守るのには当時から厳しい人だったようだが(プロテスタントに聖体拝領させたのが知れて彼に処分された司祭は多い。それこそ知り合いだろうと師匠筋だろうと容赦せずに処分し恐れられたと聞く)、しかし第二ヴァティカン会議の結果自体は、カトリック教会の典礼の近代化で、それには女性信徒の典礼参加も多く含まれる。聖歌隊に女性の参加が認められ、聖書の朗読奉仕に女性が参加し、侍祭(正教会では堂役という)に女性が認められるようになり――つまり教義では女性を排除するとは明言していないが慣習がなんとなく禁じていた領域には、大きく女性が進出するようになった。そうした改革は現教皇が主導したのであり、そして彼はいまでも第二ヴァティカン会議の精神を支持するのだと明言している。

そういうひとの、聖職者へ向けたジェンダー理論批判が、何を含意しているのか。

はてなブックマークのコメントやはてなダイアリーでは「女は女らしく、男は男らしく」「フェミニズム反対」というような捉え方が散見される――少なくともわたしはそう感じた。たとえばこのエントリはそういう理解をなさっておられるようだ。しかし聖座*3がそんな曖昧なメッセージを出すとも思われない。聴くものは聴け。しかもそれは聖職者に向けたものであるから、信仰生活に重大な影響を与える何かであると取るのは不自然ではないと考える。

ところで使徒継承教会においては7つの機密(秘蹟)(ウィキペディアの説明)を認めている。聖洗(洗礼)・聖体などで、このなかで二つだけ性別が関連するものがある。カトリックの話なのでカトリックの用語でいうと、叙階と婚姻である。叙階とは俗人を聖職者にすることで、男性のみが対象となる。婚姻は信者ふたりを結婚によって結びつけることで、男性と女性それぞれひとりを対象とする。

くだんの演説はこのことを念頭においたのではないかと私は推測する。つまり同性愛結婚を認めるかどうか、ついで女性の叙階を認めるかどうかという問題ではないかと思う。どちらの区別もキリスト教における両性の把握を根幹において反映しまた規定しなおしている。男性が男性であり、女性が女性であって、それはなにか着脱の効くようなものではない各人の人間性の根幹に関わるというのがキリスト教における両性の理解で、そうして秘蹟とは神の力が人間世界に入ってくる仕方であるから教会にとっては根源的な問題なのである。

婚姻についてだが――ジェンダーと生物学性を別個に考えることで、男性の性自認を持っているが女性的なジェンダー意識をもっているというような人が現れたり、あるいは逆の取り合わせが主張されたりする。そうして生物学的に女性と男性でなくてもジェンダーにおいて女性と男性で夫婦のように振舞ったりすることがあるときいた。上記演説はそれに反対する意図をもっているのではないのか。そういうものをカトリック教会は認めないよ、それは欺瞞で、男性の役は男性が、女性の役は女性がする、他のあり方は「人間性を破壊する」ものだよ、「男と女はひとつになる」というのは文字通りの男性と女性で、それ以外の結婚は教会においてありえないよということをいいたいのじゃないかと思う。このことについては以前DrMarksがカリフォルニアの同性愛結婚関係の投票について詳しく書いておられた同性婚拒否決定―これで同性婚を認めるのはマサチューセッツ州だけになった - Comments by Dr Marksを参照されたい。わたしはマークス博士の論を公平でかつ冷静な把握と思う。そうしてカトリックの長上がいったことも、それと対してかわらないのじゃないかなあと推測する。

叙階はもう少しローカルな話。おうちの事情といってしまえばそれまで、カトリックで認めたから他でどうなるものでもない、他教の信者さんにはまして興味のない話だろう。とはいえこれは西方キリスト教会では大問題だそうで、すでに(聖公会を含め)プロテスタント教会では多くが女性の教職(牧師)を認めている。カトリックでも、一部の信徒は女性に司祭職をみとめろと主張してやまない。前教皇の晩年にはその人たちの間にはかなり楽観的な空気が流れていた。2004年の年末には、いくつかの書物で「もうすぐ女性に司祭職が解放される」という楽観的な観測をみた記憶がある。ローマの主教はそのことに釘を刺したのではないかな? 俺の眼の黒いうちは女性司祭など認めぬぞ、女性の役割というのは社会的に獲得されたものでだから天然自然にはそのような区別など存在しないのだというジェンダー論に乗っかった信徒が、だから女性にも司祭職をというようなことは断固として拒否する、それは人間性の破壊であるぞよと、こう云いたいのじゃないかと邪推する。

原典を当たれていないのだが、カエサレアのバシレイオスは女性司祭の問題について触れていると聞いたことがある。あるいは当時にもそういう主張があったのか。まあモンタノス派には女性の指導者がいたという証言もあるようだしね。ともかくバシレイオスは、神としてのキリストには性別がない、人としてのキリスト・イエスには性別があってそれは男である、司祭は奉神礼(ライトゥルギア)においてキリストの象りを務めるのであるから、信者にキリストをよりよく思い起こさせるためには男性でなければいけないのである、というような主張をしたらしい。

おもしろいことに、東方正教会では女性司祭ということを主張する人をあまり聞かない。いるかもしれないけどわたしは聞いたことがない。同性愛結婚についてもしかりである。わたくし自身は知人には「あなたはフェミニストじゃないわよね」と全力で断言されてしまうような文化的保守主義者なので、どちらにも不満を感じたことはなく、西のみなさまはいろいろなことを考えはるなあと感心しつつただただ興味深く拝察する次第である。

*1:18世紀には女性がいた、一方カトリック聖歌隊に女性が入ったのは第2次世界大戦後であるときく。

*2:聖書にもこの「女輔祭」は出てくる。ロマ書16:1、口語訳聖書で「執事」と訳されているのがそれだ。

*3:わたしはカトリック信徒ではないけれど、ローマ主教の使徒継承性は認めるし、またその行政能力等は高く評価している。まったく高すぎて閉口するといってもよい……。