餅のない雑煮

知人に餅を食べられない人がいる。大阪は本町育ちのお嬢さんで、長じて京都にお嫁に行った生粋の日本人だ。お父さんがたいそう可愛がって、餅のような危ないものを食べて咽喉に詰まらせたりしてはいけないというので、彼女の雑煮だけ餅を入れさせなかったのだという。というわけで孫のいる御歳になるが、彼女はいまだに餅というものを知らない*1。焼いた餅はいいのかどうか忘れた。多分駄目だろう。

こんにゃくゼリー、とはいわないのか、昨年来の騒ぎのなかで「こんにゃくゼリーを規制するなら餅はどうなのか、もっと危ないじゃないか」という指摘があり、それで餅を規制するしないということが冗談になって出た。冗談のようではあったが、そうです餅は危ないです、今年もおそらくは何人か餅を詰まらせてお亡くなりになるのだろう、だから大事な坊ちゃんお嬢さんに食べさせないというのはひとつの見識だと思います。じいさまばあさまについても同様。餅が危ないと主張している人が実際に餅を避けているかどうか私は知らないが、上で書いたように実例がないわけではない。なおこの人の場合、ご尊父自身は餅が好きであったらしい。親というのは時に勝手なものである。

追記:元旦の東京のみの数字だが、「http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090101/crm0901011918007-n1.htm」。人口比を考えると全国で推定1日10人? 決して少ない数字ではないよなと改めて思う。

蒟蒻畑が出回らないことに私にとくに感慨はない。蒟蒻はおでんに入って少ししょうゆ味で煮てあるのか、さもなければ唐辛子と一緒に甘辛く炒め煮にしたのがわたしは好きなので、甘くしたものにあまり興味がわかないのだ。とはいえ、危険性があるならそれを明記するのがよいとは思うし、誤飲がはなはだしいならEUがそうしたような規制もやむなかろうとは思う。一方で、似たような危険性のある他の食品、たとえば市販の切り餅にも、「餅は咽喉につまることがあり、窒息死する危険性があります」と注意書きをしてもよいと思う――とりわけ、そのことが今や世間の常識に属さなくなっているのであってみれば*2

危ないから餅は食べない/食べさせないというのは、個人の選択であれば、自由だと思う。過保護と笑う人がいるかもしれないが、出目が悪ければ死と隣り合わせ、河豚を避けるがごとく餅を避ける人がいても、それはひとつの選択だと思う。ただ、その選択は自分でしたい。他人に代行してもらう必要はない。自分の表札は自分でかけると詠った詩人がいたが、どんなに小さなことであっても、それを他人に決めてもらうということのいやらしさ窮屈さにわたしたちはもっと敏感であってよいと思う。同時に他人の選択を、それがどんなに善意であろうとも、代行することのいやらしさ傲慢さについても。

ほぼ間違いなく死を免れないようなレベルの毒物等なら知らず、また誤飲率が優位に高いような状況なら知らず、およそ危険と隣り合わせであるような食品について、メーカーにはリスクの表示義務をのみ負わせるのがよいと思う。あるいはふぐのように資格をもった調理師等が扱うことを義務付けるのでよいと思う。リスクを取りにいく価値があるかどうかは、それぞれ個人が決めればよい。一般論として餅(やこんにゃくゼリーや)が安全かどうかを論じる意味は、社会にはあっても、個人には究極にはないと思う――死ぬかもしれないのは一般化された誰かではない、このわたしである。統計上の確率を気にするのは第三者に任せよう。餅を食べるか、食べないか、こんにゃくゼリーを食べるか食べないか、それは個人が決めればよい。あるいは、子どもの場合であれば、親が決めればよい。万一死ぬかもしれないけど食べるというのも、それはそれで一つの選択であり、ほとんどまったく死ぬ危険はないけれど万一を避けて食べないというのも、一つの選択だ。

わたしたちには、餅を食べる自由も、食べない自由もあるのだ。少なくとも、いまのところ。自分が何を食べるのか選ぶ自由、あるいは子どもが何を食べるかを決める自由というのは――最低限の文化的生活というものじゃないのかな。そしてどんなに奇妙なものであっても、それが著しく人間の尊厳を損なうような暴力的な何物かでない限りは、あるいは自分に損害が及ばない限りは、他人の選択を尊重するというのが、自由の基盤というものじゃないかな。と餅でくちくなって眠気の出てきた頭でぼんやりと考えた。

*1:食べられないといっていたので、あるいは何度か試みてみたのかもしれない。

*2:実際にそうなのかは知らない。なにしろ引きこもりであるから世上には疎いのである。