ハリストスうまる!(二度目)

クリスマスなのであります。おめでとうございます。

……え、何ぼけてるんだって? いやユリウス暦では今日(グレゴリオ暦の)1月7日が12月25日なんですよ。なので降誕祭。天には神に栄光、地には人々に平安。人に恵みは臨めり。

昨日はちょっと早めにセルビア人の友人等にクリスマスのお祝いをネットでいって回りました。こう国際化はいいんですが、西方の人たちはそういう違いをうかうか忘れる方が多くて、クリスマスの2週間前にカードが来たりしますな。あるセルビア人の友人は以前「いやあ西がぼくらを無視するのにはぼくら慣れてるから」とあっさりいっていましたが、例のNATO軍による爆撃なんかがあってそういう言葉が出てくるのかなとふと今思いました。

西のほうには、とくにご自分たちのローカルな習慣が全キリスト教界の伝統であるように勘違いして、ご自分たちがそれを守っているだけならいいんですが、キリスト教世界全体のことであるようにいったり、他派の伝統を「えーそれおかしいんじゃない」等いってくる方もいるようですが、それはあまりよろしくないことだなと私は思います。かえって、中東(エジプトとかイスラエルとか)にいる他宗の方――ユダヤ人やイスラム人――のほうが、ユリウス暦を守る東方教会のさまざまな慣習には詳しかったりしますな。あれはたぶん、ご近所同士だからなんでしょうな。政治はわけわからなくなっていますが、中東には宗教や民族の違いを超えて共存したいと思っている心ある人もたくさんいます。ウィキメディア・プロジェクトのなかで私はそういう人に会ってきました。彼らがマジョリティなのかどうか私は知りません。けれども彼らの善意が報われるように、と祈ります。

日本正教会だと12月25日かその前後に降誕祭をするところが多いのですが、ニコライ堂など一部ではきょうも降誕祭のお祈りをなさるそうです。スラヴ系信徒さんへの配慮でしょうか。

一方修正ユリウス暦の教会では昨日は神現祭(Theophany)、主の洗礼を記憶して併せて大聖水式も行われます(日本だと1月19日)。正教が盛んなところでは野外で湖や小川などをまるごと成聖します。正教だと主の洗礼は水を聖にした(神が浴することで水をよいもの・神に属するものとした)というので以って万象を聖にし祝福したというのですが、こういう宇宙論キリスト教エリアーデの言葉だけどさらに以前からあるのかな)は正教の魅力だなと私は思っています。ギリシア系の教会あたりの動画がYouTubeにあるかな、と思うので、朝ごはんを食べたらちょっくら探してみますわ^^。

追記。さすがに昨日の今日では動画のアップロードはないようだ。代わりに大量に昨年までのがあるのを見つけた。以下は英語圏のスラヴ系の流れを汲む教会と思われる*1

なんか寒中水泳のようになっているのだが、これは聖水式で十字架を三度水に沈めるのを、そのつど神父が湖に十字架を投げ入れて信者が取りに行っているのだと思われる。画像をみていると、水から上がった信者さんを神父さんが祝福しているのがわかる。このときに十字架をとってくるとその年にはよいことがあるそうで、この画像ではそのつどひとりが泳ぎにいっているけれど、いっせいに飛び込んで競争のようになる地方もあると聞いた。

脱線だが、RPGの類で聖水(ホーリー・ウォーター)が有料のところがあってゲームバランスの上でそうしたいはそれは分かるのだが、あくまでもフィクションの話でしかない。おおよそ東西問わずキリスト教界で聖水に金を取るところなど聞いたためしがない。あれは信者さんならただでもらえるものであるし、教会によっては大きな聖水桶が置いてあって、だれでも飲んだり貰ったり出来るものである。そうして聖水というのは、他の清い水と混ぜれば、全体が聖水になるものだから、少量でもあれば後は自分で増やせて足りるものである。売ったり買ったりするようなものでは本来ない、ということは、思い出したのでついでで書いておく。

また「聖水の力で奇跡」というのは東西教会問わずいろいろな伝承があるが、キリスト教では祈れば何でも解決するというようなことは教えていない、ということも合わせていっておきたい。神が万能であるということと、神が私の欲望を何でも叶えてくださるということは全然次元の違う話である。むしろ祈りは、現実の困難を引き受ける力を人に与え、またその苦難を引き受けるわたしも孤独なのではなく、神とまた他の人との交わりのなかに生きていることを思い出させてくれる、そういうものだと、思っている。「人の身体を洗うのは祈りではなく風呂である」とあるギリシアの教父はいったそうなのだが、人が自分ですべきことを祈りに任せる発想は、キリスト教の教えにはない――少なくとも私はそう理解している。

*1:聖歌の節回しが日本のと同じなので。