わたしはキリスト教徒じゃないのですが(追記アリ)

id:y_arim が朝から取り乱していたのでまあ餅付け頭でも冷やしたまいというので最初のエントリを書いて見たが、業界関係者以外に伝わらないような書きぶりであったかと反省している。なのでもう少しきっちり書いてみることにする。

有村氏の発言というのは以下のとおり。

y_arim 派遣村, news, work, poverty, 格差, religion, cult, これはひどい id:Britty きっちりキリスト教がDISられました…/「キリスト教」の区別がついてないんじゃないのか、日本人の悪癖で。キリスト教にもいろいろあって、カルトに近いヤバい宗派もけっこうある。韓国の福音派は布教が過激。

http://b.hatena.ne.jp/y_arim/20090106#bookmark-11548638

いや、好きにいわせておいたらいいんじゃないかな? だめかな。Disということなら、キリスト教に触れた史上最古の外部文献はタキトゥスの『年代記』ネロの巻で、そこには「クレストスという刑死したユダヤ人が始めた宗教の信奉者」「人類の敵」と書いてある――歴史的事情を説明すると、キリスト教はローマの公認宗教である多神教を否定し、信徒たちはお付き合いで拝むことや公の行事である祭礼に出席することも拒んだので、公共の秩序を破壊するものとして忌み嫌われたのである。それで評判のいい政治家ほど社会秩序の安寧のためにとキリスト教徒を弾圧するという、なんだかな構図が以後数百年に渡って続き、沢山のキリスト教徒があるいは処刑されあるいは遠方で囚人として労役に服することになった。史料の裏づけはないものの、伝承では十二使徒は全員刑死したというくらいだ。

2009-01-09 追記。タキトゥスを「史上最古」と呼んだことについてメールでご指摘をいただいた。フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ年代記』のほうが古い(1世紀末)だろうという。これはご指摘どおりでわたしの不明であった。またタキトゥスのこの章句は後代加筆の疑いがもたれる箇所だともご教示いただいた*1。読者諸兄にお詫びして訂正するとともに、匿名氏のご指摘に対し感謝申し上げる。追記ここまで。

それで、キリスト教徒がマイノリティなところでは、もうみなさん言いたい放題いうものだというのは、この2000年あまり変わっていない。キリスト教徒はDISられなれてるんですのよ、青年。いまさらこのくらいでこの世の終わりのように慌てたりはしないだろう。まあ皆さまちょとくらいびっくりはするだろうけど。

そうしてブックマークコメントを見る限りでは、その記事*2については、すでに数々の問題が指摘されているらしいので、別にいいんじゃないかな。特定教派が批判されているなら、そこの方々が反論すればいいのだし(わたしはどこの信者でもないです、公式には)。

むしろ、id:sauvage さんが誤解をしておられるらしいのは気になった。

sauvage ネタ, 労働, 宗教, これはすごい, これはひどい クルクルパーだろ、この記者。派遣村の運営側叩くとPVが伸びると単純に思ったのか?具体的に指摘するとキリ教では入信すると年収の1割寄付が通例。洗礼も賛美歌も教会なら当然だろ…寺はもっと厳しいぞ?

「キリ(スト)教では入信すると年収の1割寄付が通例」ということはありません。これは什一献金といわれるものだが、もともとはユダヤの律法にあった規定で、史実はともかく伝承としては祭政一致だった頃に与えられた戒律といわれている。そうしてキリスト教は直接にはユダヤの旧約の律法の下にはない(キリストは律法の成就者である、このあたりの論理はパウロに詳しい)。だから什一の義務もない、多くの教派はそう教えている*3。なので現在、什一の義務があると主張する教派は、むしろキリスト教世界のなかでも少数派であるというほうがよい。ドイツには教会税というものがあるが、税率は自分で決定でき、普通は年収の1%以下に設定するとドイツ人からは聞いた。キリスト教徒のなかでも什一を要求するのはカルト的だと考える人がいるくらい、もはや一般的ではない習慣なのだ。

もちろん什一を当たり前と考える方がいることは予期している。しかし「通例」ということなら習慣の広まり具合のほうが問題で、そうして什一は多くの教派において通例ではない。ということを述べた。信者ではない私自身の判断は、ここでは示さずにおく――これもまた神学の問題なのかもしれないが、私自身の関心からはややずれているので、深く論じたいような気が起きないのだ。

追記:
もうひとつ気になったことを思い出した。「賛美歌くらい歌ってやっていいじゃないか」というご意見が散見されるが、賛美歌(ということはますますプロテスタントですね)や聖歌というのは祈りである。信仰を自由な他者に強制するのはよくない。プロテスタントの教会にときどき私も見学にいくのだが、賛美歌どころか使徒信条(=信仰告白)を強制というか「これ読んで」と押し付けられたことがあって、もちろんそう云った案内係の信者さんは善意なのだろうが、これはよくないと私は思う。信仰は自発的なものであるべきだ。祈りや信仰告白は、「これはいまこういうことをしているのです」というのを教えるのが案内であって、祈れというのは案内ではないだろう。せいぜいが「よろしければご一緒にいかがですか」くらいにしておくべきだ。魂に関わることをおろそかにするのはよくない。まして信仰者や伝道者であるならば他者の魂のありようにはなおさら繊細な心をもって接するべきではないのか。わたしが正教の教会で落ち着くなと思うのは、こういう強制がなく、見学者は見学者として放っておいてくれるところである(放置しすぎだという人がいるであろうことは承知している)。

なお、親が子に特定の信仰形態を教えるのは、家庭教育の常識的な範疇に留まる限りでは、むしろ親の責務であると考える。しかし成人した子の場合はやはり子の信仰を親は尊重すべきだろう。

*1:ヨセフスはナザレのイエス・洗礼者ヨハネ・主の兄弟ヤコブ等初期キリスト教の人物について記述があり、これらにも長らく後代加筆の疑いはもたれていたのだが、最近の研究では記述の細部はともかくヨセフス自身のテキストであるという意見が支持されていると聞いている。

*2:わたしはまだ見ていない。見たら不愉快になるだけのような気がするし、正確さについて問題が色々指摘されているので見たところであまりしあわせにならない気もする。

*3:中世のカトリックなどでは什一を要求したこともあるようだが、いまはそういうことはない。