いまもいつも、世々に限りなく

今週のお題「2011年、夏の思い出」

はじめて地中海をみたのは1995年、いまは亡き夫との新婚旅行だった。高台にあるマルセイユ中央駅からハーバー沿いにそったホテルまでタクシーに乗って、坂を下る道へ出ると夏の海が遠く光っていた。夕食を海岸沿いのピザ屋で食べた。中サイズのを二人で分けて食べるつもりで一枚頼んで、ウェイトレスが露骨に変な顔をしたので「何だろう感じ悪い」と言い合っていたところ、隣席に座った家族連れの、まだ小学生くらいな男の子が大を一人でたいらげていたので、なるほど、我々はとても変な客だったんだなとようやくそこで得心した。

それからちょうど16年たったんだな、とウィキマニア2011の閉幕パーティで、夕日が落ちたばかりで西に淡く光が残る地中海をプライベートビーチのデッキから見下ろしながら、ぼんやりと思った。この海はあのときのマルセイユの海まで、続いているんだと、思った。
ウィキマニア2011は正式名称をウィキメディア国際カンファレンスという。2005年に始まり、以後毎年7月か8月に行われている。例年500人ほどが参加する。今年の会場はイスラエルのハイファ講堂で、正式には4日間の日程だが、先立って2日間の「開発者パーティ」やらその他運営系ワークショップが行われ、講演などで3日を費やした後、上述のパーティがあり、最終日は近隣をバスで日帰り旅行した。私はナザレとガリラヤ湖を見るツアーに参加した*1ウィキメディアと関連分野、つまりウィキやフリー/オープンソース運動についての理解を深めるためのイベントだが、ウィキマニアの本質は、ウィキメディア・コミュニティの交歓にある。世界中に散っているわたしたち数万人のボランティアの、そのなかの500人というのは、海岸の砂を少し掬ったのと大して変わらないのかもしれないけど、それでも、こうやって集まることには意義がある。わたしは、そして他のボランティアもそう思っている。

だからこそ、テロの危険がある、注意しろ、人が集まるところは避けろといわれていても、私たちは集まった。イスラエルに――ハイファに。ハイファはユダヤ人とアラブ人が混住する街で、だから日本の外務省では避けるようにいわれている類の場所だが、しかし現地実行委員はだからこそハイファを開催地に選んだ。ウィキメディアイスラエルのメンバーは(私の知る限りでは)ユダヤ人だが、アラブ系イスラエル人やさらにはパレスチナのアラブ人を巻き込んでいくことを真剣に考えているし、望んでいる。この点で、今年のウィキマニアが成功したとは言いがたいのだが、しかしそのことで彼らを責めることは間違いだろう。イスラエルパレスチナから帰ってきたいま、私はそう思う。

ハイファでウィキマニアが終わってから、エルサレムへ私はいった。7日間滞在し、ときには近郊の都市へいった。ベツレヘムやかつてのベタニヤなどへ。ベタニヤはエルサレムから徒歩で日帰りできる距離で(3.2km)夕暮れの中を歩いて帰れたらと思ったのだが、現在の名をアルイザリーヤというその町のカトリックの神父は、それは無理だといった。盗賊の危険などを指摘した上で、イスラエル軍の検問所を一人で越える難しさに触れたあと、神父は助言をこう結んだ。「西岸には壁があります。主が当時お歩きになった道はふさがれています。もはや誰にもたどることができないのです」。

エルサレムにいたときの宿は旧市街の、かつてのゲッセマネに近い場所であった。すなわち歴史的に墓地とされていた場所である。現在はアラブ人の集落ができているが、近場にユダヤ人墓地やキリスト教徒墓地があり、なので土地所有をめぐって近年衝突があり逮捕者まで出たというのは予約した後に知った。よほど予約をキャンセルしようかと思ったが、このハイシーズンに混雑する市内に宿を取る大変さを思い、結局別の宿を探すこともせず、その宿へいった。結果からいえば、宿は安宿ならではの設備の古さと旧市街から徒歩で1kmあることを気にしなければ、快適であった。墓地の前にあるので静かなんじゃないかと一瞬期待したが、それは私が馬鹿でした。ラマダン中のムスリム居住地の夜に静けさなど期待してはいけない。ましてや裏が学生クラブで大勢の若者が毎晩、卓球やら太鼓の練習やらしているようなところでは。まあおかげで、店も屋台も夜でも開いていて(というより、正午を過ぎると一度しめて日暮れ前くらいに再び開く)、乾燥地の高地ならではの涼しい夜の散策を楽しみ、中近東ならではの菓子など食べたり、あるいは屋台で小銭が足りないので値切ろうとしたら「いいよ、ぜんぶやるよ!バクシーシだよ!」と大量のミントをただでもらったり、アラブ都市としてのエルサレムを堪能しました。旧市街にはスークもあるしね。あれでハマス(トルコ風の公衆浴場)さえあれば完璧なんだが、探し方が悪かったのかどうか、どこでも見かけることはありませんでした。

新市街でいちど道に迷ったとき、たまたまあった女性に、「わたしもちょうどそっちへいくのよ、だから無問題」といわれ案内してもらった。彼女はパリからやってきて、旅行会社で翻訳の仕事をしている、滞在四ヶ月目だという。「ここ(エルサレム?)では、誰でも親切にしてくれるから、だから何があってもだいじょうぶよ」と彼女はいった。それはエルサレムだけではなく、ハイファでも、アルイザリーヤでもそうだった。テルアビブでもたぶんそうだっただろう。私は睡眠薬を持っていくのを忘れ、到着してからの数日かなりきつい状態ではあったのだが、それでも現地の友人 (Dror Kamir) が奔走してくれて日本で処方してもらったのと同じ薬を滞在日数分手にいれることができた。このことについては関係者すべてに篤く感謝する。しかもその友人は、自分の就職活動や実行委員としての活動をしつつ、薬の入手に尽力してくれたのだ。大会が終わってから、過労なのかたんなる風邪なのか、彼は熱を出して寝込んでしまった(いまでもだいぶましになったらしいが、まだ寝たり起きたりだという)。その一端はこのことにもあるんだろうなあと済まなく思いつつ、彼の友情に改めて感謝する。

ベツレヘムを訪れたときに、物売りの少年がロザリオを懸命に売り込んできたことがあった。わたしはカトリックでないからいらない、と英語でいったけれど無駄だった。私の物言いがあまり邪険だったからだろう、自らは正教徒な運転手&ガイドが私を諫めて、言った。「ここは聖地だ。カトリックは嫌い、とかいってはいけない。お互いに愛しあわなければいけない。親切にしなければいけない。ここは聖地なのだから」。そのことが滞在中もっとも深く心に残っている。

4年前、シナイ山パレスチナからきた正教徒の巡礼団とであったことがある。彼らは何人なのかと問うた私にイスラエル人だと答えた。引率の神父様は、そのとき、シナイ山の後に聖地へ行くのかと私に問われた。否定したあと神父様はこう仰られた「残念ですね。いつか聖地にいらっしゃいね」可能なら、とは仰られなかった。そんなことはたぶん起こらないだろう、と思いつつ、私も可能ならば、とはいわなかった。聖地へいつか行きたいという思いは私もあってそれを否定するようなことは私もたぶんいいたくなかったのだと思う。「私もそう望みます」私は代わりにそう答えた、ように覚えている。

自分の力でイスラエルへいけたわけではない。ウィキメディア財団から提供された旅費がなければ渡航はできなかった。急激な円高で一部を自己負担することになったが、最初の条件では往復と渡航費全額と、大会中の宿泊代、そして参加費は無料だった。むろん、それに恥じないことをいままでやってきた、という自負が私にないといえば嘘だが、しかしそれが無駄な投資だったかどうか、それはこれからの自分や、そして日本のウィキメディア・コミュニティの活動に掛かっているとも思う。

以前のエントリで触れた不眠症はまだ直っていない。帰国のあと、別のことでショックなこともあって、いつ直るかはわからない。それでも、思う。自分の望みが叶うかどうかはわからない、しかし常に自分の前には最善が備えられる、天が与えるものは私が欲するものではなく、私が真に必要とするものだからだ。だから、ウィキメディア運動も、それが真に世に必要であれば、前へ進んでいく。たとえ一歩づつだとしても。

テルアヴィヴやハイファで日を過ごしながら、ペトロが幻を得て異邦人への宣教をはじめたというヨッパの湾を散策しながら、あるいは西岸とイスラエル実効支配領域の壁を幾度か往復しながら、エルサレムの旧市街で時をついやしながら、この夏、自分が学んだことがあるとすれば、そのことだと思う――天の国はすでにきている、それを望む人の心のうちに。天のいと高きところには神に光栄、地には善意の人に平安。いまもいつも、世々に限りなく。

私は今年で43になった。おそらく人生の半分はとうに費やされているのだろう。自分に残された日がどれほどあるのか、私は知らない。けれど、自分に何かする仕事があるなら、それをすることを専に考えていきたいとおもう。いまわかっているのは、療養が必要だということ、下手に手をだせば Dror がそうだったように回りに迷惑がかかるということ。

なので、しばらく、お休みが続きます。御旨ならば、それは叶う。なので私はあせらないでいようと努力します。みなさまにも待っていていただければ、嬉しいです。――みなさま、またいつか、お会いしましょう。

*1:スケジュール詳細は http://wikimania2011.wikimedia.org/wiki/Schedule を参照。