共通感覚と個

http://facta.co.jp/blog/archives/20060325000112.html

たしかあれは学部のときのKdrVのゼミで指導教官のF氏がいったのだと思うのだが、「Kantの gemein は肯定的な意味で使われる:ドイツ観念論とはそこが違う」という指摘がある。たしかに、gemeiner Verstand は KdrV などでは、むしろ gesund といったほうがいいような含みがある。一方、Sch.では同じ語に侮蔑の風が漂う。Hegel についても、それほど好意的な含みはなかったように記憶する*1

上の URL ではハイエクの根底に超越論哲学をおく読みが英米系経済学にはあるのだそうだが、私はむしろ、とくに「無知」*2については Leibniz からの系譜でも考えたほうがいいのではないかな、とも思う。KdrV の超越論的認識論のなかではハイエクのいう「知の集約」の理論的要請がそもそもなぜ必要なのか疑問だ。KU では美的ないし倫理的共同体とそこにおける個の主観的統制的判断が問題化され、そこで普遍妥当性をもった主観的判断主体がそれぞれ他の個体に対して普遍妥当性を要求し、そこではじめて個々の人間認識の照合が理論的に要請されるのだが*3、カントでは、個々の(趣味)判断の妥当性がどのように確保されてくるのかは、文字通り dunkel であって、たんに所与として語られ、認識論的にも形而上学的にも十全には基礎付けられているといいがたいように思う。

個のもつ認識が、それ自体においては影響しあわないにもかかわらず、重なり合い、しかも唯一の超越的中心にむかうのではない、という事態はむしろ単子からなる世界とそこでの認識として考えるほうがうまくあつかえるのではないかと思う。単子は力でありそれぞれが存在者であるけれども、同時にその力とは表象の力なのであって、その意味で、単子はそれぞれが世界についての情報を担う「情報を伝える最小のそして唯一の単位」であるともいえる。すでに20世紀後半から KU と Monadologie の間の連関を指摘する論考はいくつかあって、ハイエクがその系譜に連なっているという可能性は十分にあるようにも思われる。ただし、かしこでは「明るくなる」ことへの憧れが世界を満たしており、こちらでは「暗さ」への諦念が静かに存在者を浸しているようなのであるけれど。

なにいってるかわかんないな。人が読んだら蛙になれ。

*1:もっとも私の記憶など当てにはならないが

*2:これ、DaSというよりは、「眼は眼をみない」という土管系の思想にむしろちかいようにも思う

*3:KdpVでは、道徳的な正しさは超越論的に措定可能であるように思われる、その限りで、「正しさ」を判定するためには他の個体の必要性はあまりないように思う