お笑い作家としてのウンベルト・エーコ

お笑い作家としてのウンベルト・エーコ

薔薇の名前〈上〉
イタリアの哲学者・美学者であり小説家でもあるウンベルト・エーコは日本でも比較的よく知られている(最近の2つの長編 BarbelinoThe Mysterious Flame of Queen Loana はいまだに翻訳されていないようにみえるけれど)。哲学と歴史の小ネタを惜しみなくつぎ込んだその壮麗な小説世界は、当然なんだか妙に分厚い本になって(第一長編と第二長編の邦訳はともに二分冊だった)、しかもいろいろな解説本が出ているとなれば活字慣れしていない読者を敬遠させるには十分な気もしますが、あれは本当はとても面白い本なんですよ。いや、興味深いとかじゃなくて、文字通り笑えるという意味でね。それも知的なウィットとかじゃなくて、どちらかといえば親父ギャグの笑いである。
私にとって『薔薇の名前』は、ある意味で Monty Pythons and the Holy Grail の系統に属する映画である。  

当然、小説のほうも。いやもちろんあれを知的な観念小説として読んでもいいのだけど、ていうかそういう読み方も私は嫌いじゃないのだが、しかしそれだけではもったいないように思う。エーコの小説は知的な観念小説であると同時に、気恥ずかしくなるほどのべたべたな笑いを取りに来るお約束的笑いに満ちた世界でもあるのだ。現に本人が「自分の小説には4通りの読み方がある」といっているそうである(聖書かよ)*1

私が大学に入ってしばらくして、そのときにはまだ『薔薇の名前』の邦訳は出ていなかったのだけど、ショーン・コネリーが主人公バスカーヴィルのウィリアムを演じていたので、それに釣られて見に行ったのだ。原作者が記号論的美学の偉い先生ということもいちおう知っていたかもしれない。他にあまり予備知識なく映画館に行った私は、主人公のその名前が最初に出たときに唇を噛んでじっと笑いをこらえた。お連れの少年修道士(お約束で当然ながらあまり役に立たない)が、メルクのアドゾというところでもがんばって耐えた。つまりこれは、この映画がホームズ物のパロディだということをクソ真面目な身振りでいっているわけだ(バスカーヴィルについては説明がいらないとして――アドゾはワトソンのラテン語表記である。Adso / Watson)。なんで我慢したのかというと、シネマスクエアとうきゅうの他の観客は黙って静かに芸術映画を見る風情でスクリーンに没頭していて、ここで大声で笑ったり拍手したりするのはたぶんとてもおげふぃんで皆さまのお邪魔になる行為なんだろうなと直感したのである。しかし、話が進んで、修道院でその所在をめぐって殺人事件が起こっているとまじめにいわれた本の書名を聞いたときには、もう耐えられずに盛大に噴いた。だってアリストテレスの『詩学』第二部ですぜ。

アリストテレース詩学/ホラーティウス詩論 (岩波文庫)
詩学』は「第一部で悲劇を論じ、第二部で喜劇について論じる」という予告があって、第一部が中途半端な調子で終わっている。第二部のアラビア語写本があるという説もあるらしいが、現物はともかくも伝わっていない。そういう、現在では存否も定かでない(あるとしても偽書かどうかがまず問われる)ものが存在すると信じられ、そうして現実に影響してくるというセッティングのおかしさと不条理さに、私は思わず噴き出してしまった。もちろん映画館で笑っているのは私だけだった。死のような沈黙のなかで、しまったと私は思った。あとで哲学科の飲み会でこの映画の話がでたとき「あれは笑うところですよね」ということで先輩方と意見が一致したので少しほっとしたが、その場では心底恥ずかしいと思った(人の眼を気にする時代が私にもあったのである)。なにより冷たい視線が後ろから隣から飛んできた気がしたので、そのあとはまた小さくなって、2時間の間、あとからあとから襲ってくるクスグリにも笑いをじっとこらえていた。コメディ映画を笑いをこらえてみるというのはちょっとした拷問である。自分で自分を褒めてやりたいと思う。他にもいろいろ笑えるシーンがあるのだが、『薔薇の名前』はいちおうミステリーでもあるらしいので、これ以上ネタを割るのはやめておく。

フーコーの振り子 上 (文春文庫)
なお『薔薇の名前』での『詩学』第二部をめぐる、ある文書とそれをめぐる(正確にはその誤読をめぐる)陰謀論が人を動かし、血で血を洗うスキャンダルに発展していくというセッティングの不条理なおかしさ(しかしこれ現実の宗教史とどうちがうのだろうね)、この筋立てをエーコはだいぶ気に入っているらしく、『フーコーの振り子』や『前日島』でも同じようなセッティングが見られる。

論文作法

エーコの本業は大学の先生である。あまり知られていないらしい『論文作法─調査・研究・執筆の技術と手順─ (教養諸学シリーズ)』という著作もあって、実はこれは私が学部生のときに指導教員に勧められて読んだ本である。エーコが自分の博士論文を書いたときのシステムをベースに、研究計画の立て方から引用の仕方まで、論文作成に関わることが詳細に述べられている。やってはいけない不法行為についても(誰かに代作を頼むとか、どこかからこっそり引き写してくるとか)なんだか割と詳しく書かれているくらいには遺漏がない。原題を直訳すると『卒業論文はどうやって書くか』、文系だけでなく理系の学生が読んでもよいように書かれていて、イタリアでは学生の間で大ベストセラーになっているらしい、とこれは本屋の主張なので話半分に聞いておく。

かように真面目な本であるはずだが、論文作成の例などには、なんとも微妙な雰囲気が漂っていた。本のわりと最初のほうに一角獣についての論文を書く話が出てくるが、『薔薇の名前』の最初のほうで、ウィリアムとアドゾが一角獣についての問答をするのを覚えておいでだろうか。一見淡々とした記述のなかに、かように『薔薇の名前』関係の小ネタがちらばっていて、読んでいてにやっとさせられた。そうして訳者によれば、当時はまだ邦訳の出ていなかった『フーコーの振り子*2に関するネタも、実は『論文作法』のなかにはごくさりげなく出てくるそうで、まだ見ぬ新刊への期待を掻きたてられたものだ。

前日島(上) (文春文庫)
そうして数年後、『前日島』邦訳が出た。原著は1995年なので、『論文作法』よりずっと後になる。最初は何の気なしに小説を読み終えたのだが、だいぶあとになってふっと気になり、もう一度『論文作法』をしらみつぶしに最初から読んでいった。すると『論文作法』のいわば主人公である6ヶ月で卒業論文をでっちあげなければならなくなった架空の無名の学生の住むイタリアの田舎町が、まさしく『前日島』の主人公の故郷であることが分かった*3。『前日島』の構想が『論文作法』執筆当時からあったのか、それとも読者サービスとしてその町をいれてみたのか、私は知らないのだが、しかしそういうどうでもよさそうなところでネタを仕掛けてくるエーコの芸人根性、くそくだらなくてもいいから笑いを取りにくる姿勢と読者に何度でも自著を読み返させる工夫には、まことに恐れ入った。あとで、60年代のイタリアでエーコが市民ラジオ局のディレクターをしていたという話を聞いて、なるほど、と思った。『薔薇の名前』もある意味では「笑い」を知の正当な体系のなかに(「あふりかノ果テ」に隠匿したり存在を抹消したりするのではなくて)位置づけようという投企の物語であって、それは小説世界のなかでは一端敗北するのだが、しかし『薔薇の名前』のもうひとつの清貧論争をめぐる筋では敗北を覚悟しつつ試みらねばならぬ闘いもあるというのがいわれているような気がしないでもない。笑いの価値、秩序から逸脱していくものを、しかしその秩序の中で守るということの意義を大上段にいうのを照れながらも、というよりそういうことをあからさまにいうプロテスタント的きまじめさをおそらくは田舎くさい教条的な態度として厭いながらも、やはりそれをいいたげにしているエーコ師匠を、読者としてはなんともいとおしく思うのである。

Inspired by:

関連エントリ:

*1:この言葉は『論文作法』(後述)で紹介されているのだけど、真面目に取っていいのかどうかわからない。エーコはかなりおちゃめさんみたいだし、それにこれはオリゲネスが聖書についていった有名な言葉の明らかなパロディなのだ……。むしろ「チョイワルおやじ」的な笑いを取るための台詞だった可能性を検討してもいい場面ではないだろうか。

*2:『論文作法』の邦訳は1991年、『フーコーの振り子』の邦訳の出版は1993年。

*3:イタリアの大学では、定期的に通わず試験のときだけ大学に出てくることで卒業資格を手に入れることも出来るらしい。