創業二十五年

わたしが結婚した人は、大学時代は家からずっと通っていたそうで、就職してからも1年目は家から通っていたのだが、そもそも寝るのが早い人が――はじめて一緒に休んだとき夜の10時から布団を延べ始めたので顎が落ちるほど驚いた――車で1時間半くらいを帰宅すれば日付が変わる頃というのでとても体力的にもたず2年目からは下宿というか職場の近くにアパートを借りて、だから知り合ったときにはすでに一人暮らしをはじめていたことになる。

はじめてそのアパートに遊びにいったときに、なにしろ台所には薬缶しかないのをみて、彼の家事能力にはあまり期待しなかった。正確にいえば包丁はあった、だが鍋はなかった。間違いない。フライパンはあった。でも彼が使っているのをその部屋ではみたことがない。彼が鍋を買ってきたのは付き合いだしてはじめての正月、彼の家の雑煮を作って振舞ってくれたときで、二人でスーパーへいき、手ごろな大きさの鍋を買ったのをおぼえている*1。まあ部屋はきれいに片付いていたけれど、それは彼の職場の机もみていたからさほど驚きはしなかった。そもそも朝早く出勤して夜遅く帰宅してほんとうにすぐ寝てしまうひとなので――繰り返すが夜の10時だ――家を汚す時間がなかったんじゃないかと思う。台所ももちろんそれなりには綺麗だったが、なにしろ湯を沸かす以外のことに使っている形跡がないので、こちらも汚れる理由があまりなかった。

そんなわけだから、新婚旅行から帰って、その小さなアパートで二人で暮らすようになってからも、それほど彼が家事をしているところをみる機会はなかった。いや正確にいえば、その小さなアパートに寝に戻る間は、というべきだろうか。社宅を借りることにはなっていたのだが、入籍から社宅への入居までにはしばらく間があって、私も彼もそれぞれに借りていたアパートがまだお互いの生活の本拠地になっていた。朝おきて、ふたりでご飯を食べて、彼は出勤しわたしは研究室へ行く――わたしはまだ学生だったのだ――あるいは下宿に荷物を作りに戻る、夕方には図書館下の生協食堂でごはんを食べ、夜は彼のアパートで寝る、という日々が続いた。朝ごはんは彼の担当で、これはわたしが上90下45という低血圧で午前中へろへろである一方、彼のほうは遅くても6時台には目が覚める早起きということもあって、パンと紅茶と卵、のちにヨーグルトもついた簡素な朝ごはんを彼が支度した。洗い物はわたしがして、その間に彼が髭をあたった。

ほとんど一緒に過ごすことのなかった新婚当初であったが、それでもさすがに休日は二人で過ごし、彼が一部の家事に妙に職人的なマニアックなこだわりをもっていることには気づいていた。各種洗剤はもとより、掃除機のノズルもみたこともないようなのが幾つか揃えてあって、これはどの用途と彼は丁寧に説明するのだった。わたしも家事の一通りくらいは知っているつもりであったから、いちいち細かいことを説明されなくてもいいよとは思ったが、なにしろ男の子というのは説明するのが大好きだし、家事に興味をもつ男の子というのはそう多くいるものではないことは27年(当時)も生きていればわかる。それでこれは話の腰を折ってはいけない、好きなだけ薀蓄を語らせてやるのが妻の務めだろうと、微笑を浮かべつつ彼の家事語りを聴いているのだった。手順が妙に細かくて、それを外すと多分この人は不機嫌になるんだろうなあと頭の片隅で思いながら*2

そうこうして、ようやく社宅の入居日になった。比較的近所にある彼の実家から、両親が手伝いに来てくれた。こういうときは妻側の実家で家具を揃えるものなのかもしれないけれど、とくに結婚に反対したわけではないとはいえ私の実家ではそういう気の回し方は誰もせず、そうしてわたしも学生の身分だから貯金があるわけでもなし――むしろ無利子とはいえその時点で250万近い借金を抱えていた――因習に囚われることはあまりない私でも、さすがにちょっと申し訳ないなと思った。家具は彼の下宿からきた食器棚と、我々ふたりの本棚と、これもそれぞれがもってきたいくつかのカラーボックスがあるきりだった。姑が、夫下宿からやってきたばかりの食器棚をみて、眉をひそめたのを覚えている。近くの電気屋で新居の台所にちょうど入るガスコンロを買い(備え付けではなかった)、前に頼んでおいた冷蔵庫が届き、文化住宅の小さな庭で夫と舅が草を刈った。わたしと姑は荷物をほどいて、その夜は外でご飯を食べた。姑が「……さんにばかり任せてないで、あんたも家事をやりなさいよ」と夫にいい、夫は「はい、かあさん」と応えたが、これは『大草原の小さな家』の真似がしたかったらしく、半ばギャグのようなものだということは、後でわかった。

いつから家で夜の食事も取るようになったかは覚えていない。わたしはしばらく昼間は家で荷物をほどいたので、家にいる時間はだんだん延びていった。わりとすぐに夕食も家で食べるようになったのだと思う。食事が終わって、皿を下げようとするとすかさず彼がたって皿を取り上げ「ぼくがするよ」といった。「いいから座ってて」というのでありがたくそうさせてもらうことにした。立ってるものは親でも使えというのは至言で、ましてあちらがそういうのだからそうさせてもらうに越したことはない。「実家でもずっと洗ってたんだよ」と彼が嬉しそうに自慢げにいった。そうして自慢するだけあって、見事な洗いあがりであった。拭く前にお湯でくぐらせるまではしなかったが、まあ茶道具でもなし、そこまでする必要もない。お湯をやや盛大に使うことに目をつぶれば、油汚れがうっすら残ることもなく、文句のつけようもなかった。というか、洗い物にかけては私より彼のほうが遥かにスキルが上だということが分かった。

「うまいねえ」「創業二十五年でございますから」とても嬉しそうに彼がいった。とすると、五歳のときからか……もちろん最初のうち洗わせてもらったのはプラスチックの子ども用食器のみだったそうだが、小学校の低学年ではすでにすべての食器が彼の担当だったらしい。お義母さんが労働とその報奨ということに厳格な人で、お小遣いというのはすべて「お手伝い」の対価であるという家だったそうである。年度初めに担当する家事の割り振りを決め、さぼったり手を抜いたりすると、その月は手取りが減るということなので、勢い家事労働を真剣にやり、スキル向上に努めるということになったらしい。そうしてエンジニアである彼は、自身の家事スキルを向上させ、新しいデバイスを試し、アウトプットの質を高めることにも、他の趣味*3と同じぐらいに打ち込んでいるということをわたしが知るのにさほど時間はかからなかった。料理を除いては、わたしが彼よりぬきんでている家事というものはこの世に存在しないように見えた。

義理の両親は同じ大学の出身だった。理系の学部で出席番号が連番の彼らは実験で同じグループで、いつの頃からか付き合い、大学を出て数年後に結婚したそうである。義母も学部を出た後は就職して、本人によれば「ウサギの目にスポイトで薬を注す毎日」を送っていたそうだが、昭和20年代の後半、大卒の技術職であっても既婚女性が働き続けるのは論外だったそうである。結婚を期に、つまり数年で、退職した。義母はほんとは働き続けたかったらしい。けれども会社もそれを許さなかったし、義父にとってもそれは想像外のことであったらしい。少なくとも義母によればそうで、だから義母には家に入るより他に可能性がなかった。

義父はよい夫ではあったけれど、仕事を続けられなかったことは澱のように義母の心に沈んだようだった。「お父さんは家事を出来る人じゃないからねえ」と溜息のように義母が漏らしたことがあった。わたしに向かって「男の子も家事が出来るようでないと女が外で働くのは難しいわねえ。だからわたし、……のお嫁さんになる人には同じ目にあわせたらいかんと思うたのよ」といったこともあった。それを夫が直接聞いたことがあるのか私は知らないのだが、夫があるとき漏らしたのだが、まだわたしが学生だったころに「……さんはお仕事してるのと同じなんだから、あんたが邪魔になってはいけないよ」と義母は夫にいったそうである。わたしがそれを聞いて思ったのは、義母はほんとうに仕事を続けたかったんだなということであった。

わたしが夫と暮らした六年半の間、ほとんどの日、夕食の後は彼が皿を洗った。まれに彼がとても遅く帰ったり、疲れていてよう立ち上がりもしないときには、わたしが代わった。そんなとき、彼は決まって、疲れた笑みを浮かべ「ごめんねえ。なんにもできないで」というのであった。そうでないときは、「お手伝いするの」と嬉しげにいつも私の後をついて回って、まるで大きな子どもが出来たように思うこともあった。あるいは、たまに疲れているにもかかわらず彼が家事に手を出すこともあって、そんなとき私は「無理しなくていいのよ」とこれは本心で云っていたつもりだったが、彼ははにかんだように笑って「だいじょうぶだよ」「ぼく洗い物好きだから、いいの」「……ちゃんこそ、お疲れでしょ?」「頑張る」等々いうのであった。

六年半といったが正確には最初の六年の間のことだった。彼がうつ病を病んでからは、そういうことはだんだんに減っていった。彼はほんとうに疲れていて、ことに夜は、とりわけ最後の一月半ほどは、ごはんを食べて寝るのでやっとのようにみえた。それで、彼がうつ病を病んだあとは、ほとんどすべての家事をわたしがすることになった。当時わたしは家に一日中いたので、とくにそれは負担ではなかった。ただ彼の気持ちをおもうと、出来るときは彼にさせてあげたいともおもった。いつもできることが出来ないというのは、案外にひとを滅入らせる、そのことは容易に推測がついたからだ。

ほかのことを彼がしなくなって、というか出来なくなっていったあとも、朝ごはんはずっと彼の担当だった。トーストに紅茶、たっぷりのミルクを添えて、ジャムは彼が大好きなティプトリーのジャムを二種類、オレンジジュースにつけて戻したプルーンにヨーグルトを添えて、それがわたしたちのいつもの朝ごはんだった。だから、いま振りかえると、彼がなぜその日朝ごはんを何にするか私に尋ねたのかは、考えれば考えるほど謎であるように思われてくる。

自死する人は、何の気ないことばに絶望して死に赴くのだという。あるいはそうなのかもしれない。そうでないのかもしれない。考えても仕方のないことで、だからそこにこだわるのは不健康なだけかもしれない。でも数日前、その問いの根底にある謎に気がついてから、彼のその問いには何かが伏蔵されていたのではないかという問いが、私からずっと去らずにいる。

いまの私の台所では備え付けの食洗機が皿を洗っている。この話を読んだあなたが彼を覚えていらっしゃるなら、あるいは彼をまったく知らないとしても、もしお願いして構わないのでしたら、七年前、十二月の末、金曜日の朝に逝った彼の魂の安息のために、どうか祈ってあげてください。

Inspired by

*1:それはだいぶ後になるまで、味噌汁を作る鍋として使われていた。

*2:なお、違うことをしても不機嫌にはならなかった。ただ、わたしをよんで、私のやり方では瑕疵が生じることをいつもの静かな口調でやや嬉しそうに指摘し――こういうところはいじわるさんである――それから彼のいつものやり方がいかに合理的でそのような瑕疵を生じさせない利点をもっているかを縷々と説明しだすのであった。というわけで、結局はすべての家事が彼が好ましいと思っている方法でなされるようになった。

*3:ここでは計算機管理を基本的には趣味として扱う。なぜならそれは業績には数えられないからである。少なくとも当時、彼の場合は。それは職務のうちではあったが、残念ながら業績にはならず、彼もそれは理解してはいた。