精神を病んだ人がネットを使うということ

昨日まとめた「配偶者がうつ病になったときにするべき、たった一つのこと」へのコメントとお返事 - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wakeで、精神を病んだ人がネットを使うということについて、自分の経験から簡単に触れた(わたしは死別反応に伴ううつ状態のため、投薬と面接による通院治療を数年間に渡って受けたことがある)。それが、やや否定的な評価であることからか、ブックマークコメントで軽い反論のようなものを二三いただいた(一例)。

わたしは基本的に面識のない他人に助言はしない。可能性を示唆することはあるが、効果的な助言というのは本人を知り状況を知り自分がなんらかの知識を有する局面でしか出来ないものだと思っている。いっぽうで、自助グループの経験を通じて、個人的な状況を語るということの効果も、他人のそれを聴くことの効果も知ってはいる。なので、個人的な経験の共有に留まる限りでは、ネット上でやりとりすることにも意味はあるだろうと思っている。

だから、わたしも少し自分の体験に触れてみようと思う。すべてを書くわけではない。それはまだわたしのなかに十分に結晶化され、無毒化されてはいない。だから、書けない。ブックマークコメントでいった「呪詛」とはこのことである。その一部はウィキペディア日本語版と関わっており、それが私にあのコミュニティに曖昧な態度を取らせていることは確かである(すべてが唾棄すべきものとも思っていない、純粋な悪も純粋な善もこの地上には珍しいのである)。少なくとも、一部の人々は、わたしがまだ自死遺族であることを公にはせず、なので自分の身元を大幅には公開していなかったときに私の本名を暴くことに熱心だったし、あるいは私がプロジェクト内で公開していた写真に性的な意味をもつAAを組み合わせるなどの辱めを行って恥じることがなかった。また私にとってより重大なことに、それを公然といさめる人も当時日本語版のコミュニティにはいなかった。わたしがあのコミュニティに温かい気持ちをあまり持たず、活動の中心をいよいよ他の言語へ遷していったとしても、それはお互い様だろう。そういうときに、わたしの怒りや嘆きを受け止め、わたしの悲しみに寄り添ってくれたのは、Jimmy Wales や Anthere こと Florence Devouard をはじめとする国際的なコミュニティの仲間達であり、またごく少数の日本語版ユーザだった。彼らがいなければ、わたしがウィキメディア・プロジェクトに踏みとどまることはなかっただろう。

閑話休題

わたし自身も、ネット上の自死遺族コミュニティに二三御世話になっており、そこで得たいろいろな体験がその余には換え難いものであることを知っている。精神を病んでいる人がネットコミュニティにかかわることを、わたしが全面的に否定しないのも、そういうネットコミュニティで得た、いろいろな、多くはポジティブな経験が根底にある。ただ、そのようなネットコミュニティでの経験は大きな危険と隣り合わせであることも強調したい。上で書いたようなネット上での心ない攻撃や中傷は、心が弱っているときには大きな試練となった。不眠が悪化したことも何度かあったし、またそこでいわれたことがショックで家からまったく出られない日が数日続いたこともしばしばあった。そうして、そこでいわれたひどいことがらには、私への中傷だけではなく亡夫への中傷さえあった。なかにはウィキペディア日本語版を攻撃するためだけに、プロジェクトとは何の関係もなくその人たちが会ったこともない亡夫にいわれのない中傷をする人々もいたのである*1

ネットでの一握りの慰めを得る代償として、どれだけの血をわたしの心が流したか、それを私は考量したことはない。これからもすることはないであろう。おそらく答えのでるものではないし、答えが出たとしても過去の自分の助けにはならないから、それは現在のわたしにとっては意味のない問いである。他の方にはもっと役に立たないだろう、畢竟それはわたし個人の体験である。ネットに関わる人は、みなそれぞれに自分でその危険と利益とを考量するべきなのだ。あるいは責任能力のない、未成年者や制限行為能力者であれば、その保護者や後見人が。

わたしはいま現在自分がこのようにあることを後悔してはいない。しかし数年前の自分に助言を求められたなら、いくつかのウェブサイトには書き込みをしないこと、それ以上に閲覧しないことを答えるだろうとは思う。難しいのは、そうしたウェブサイトには、かけがえのない人間関係をもたらしたものも含まれるだろうということだ。ただ、冷静に自分の過ごしたこの数年間を振り返れば、ウェブサイトの閲覧から受けた精神的なダメージのおかげで自分自身のグリーフワークは複雑化し、やや困難な仕事になっただろうということを否定できないだろうとは、思っている*2精神を病んでなおネットの悪意に直面するということ、そのことは、健康である場合に増して、甚大な結果をもたらすリスクを伴う行為である――そしてその危険はネットがまさに現実の一部だからこそリアルな危機として現し身を備えた己の心身に及びうる――ということは、自分の体験からではあるが、云っても許されるかなとは思っている。

Inspired by:

関連エントリ:

*1:そうした攻撃は、実はなお、いまでも続いている。回復してきた今では私はそれを無視できるが、そこに至るまでには、多くの有形無形の支援を必要とした。名を挙げることはあえてしないが、改めてここでお礼申し上げる。

*2:なお、このことはネット外には危険がないことを意味しない。以前のエントリ「悪意と希望」では、亡夫の死後、まだ死別反応の続いていた時期に痴漢の被害にあったことで恐怖等からしばらく外出できなくなったことについても簡単に述べている。