KOF2011に関西ウィキメディアユーザ会が出展しました。

11月10日・11日に行われた関西オープンソース2011 (http://k-of.jp/2011/)に 、関西ウィキメディアユーザ会は出展いたしました。昨年同様、土曜日のみの出展ですが今回はブースに加えセミナー(50分)を行いました。

ブースでお立ち寄りいただいた方は、みなさまウィキペディアの閲覧を中心とした使用をされておられるとのことでした。そのためウィキメディア・コモンズなどの姉妹プロジェクトをご紹介する一方、利用者登録しログインすることでウォッチリストの使用や、個人設定の変更などができ、より閲覧しやすくなることをご紹介しました。個人設定の変更には、スキンの選択やウェブサイトからのシステムメッセージの言語選択(たとえば個人設定を変更することで、ウィキペディア英語版などを利用する際も日本語表示メニューを利用できる)からガジェットの選択などがあります。また登録ユーザはユーザカスタムCSSJavascriptを使用することが出来ます*1

セミナーでは「ウィキメディアの国際的なコミュニティの魅力」と題し、ウィキメディア運動の全般を紹介した後、参加の一典型としてウィキペディア日本語版に執筆・つまり文章を投稿する上での基本的な情報をユーザ会会員がご案内しました。ウィキペディアには執筆の上で重要な3つの方針「中立性な観点」「信頼できる情報源」への依拠とその書誌情報明示、「独自研究は載せない」がありますが、50分のセミナーですのでごく基本的なアウトラインを紹介するにとどまりました。

ブースおよびセミナーにお立ち寄りいただいたみなさま、設営および運営についてご協力いただいたみなさまに御礼申し上げます。

*1:自アカウント利用者ページのサブページとして foo.css, bar.js 等を作成する

ぼくの冷蔵庫が壊れちゃった・またはイスラエル式レモネード

台風すごかったですね。みなさまお変わりありませんでしょうか。

わたしは台風の被害こそ蒙りませんでしたが、旅行中にもどうも機能停止していたらしい冷蔵庫からの露漏れで台所の床板が一部腐ってしまい、当の冷蔵庫ももう寿命のようで、買い替えないといけない様子で、ちょっと気分的にめりこんでいます。結婚を期に買ったものですので、もう16年前のものになりますね。今時のもののほうが機能も充実しエネルギー効率もよく、何より(将来)共稼ぎ世帯になることを見越して*1買った4ドア冷蔵庫とか一人暮らしだと持て余し気味なんですが、ええ、私はどちらかといえば非合理的な人間なんですよ。……だけど開封した牛乳1リットルが三日もたない生活に、パトラッシュ、ぼく疲れたよ。かつての同居の人は牛乳を日に1リットル飲む人でしたが、おれそこまで牛乳好きじゃないし……。

というわけで、ただいまの目標はリフォーム屋さんに来てもらえるように部屋をなんとかすること、冷蔵庫の中のものをどうにかすること。それまでの当座の用に100リットル以下の小さい冷蔵庫を買いに、実はこの日曜日梅田へ出るつもりでしたが、台風でそれも延期になりました。とはいえこれは今週中にはなんとかするつもり。日本の夏は冷蔵庫なしで過ごすにはきびしいものがあります。そう台風が過ぎた後も、暑い日がまだ続くみたいなんですよね。

暑いときに冷たいものを飲むのはかえってよくない、と聞きますが、しかし冷たいものが欲しいときだってあります。いまのうちみたいに、氷が作れないような環境だと水道水がもっとも冷たい、いや、冷凍庫で冷やした水ってのがあるな(氷は作れません、そこまできちんと冷えないから)、というような環境だと、とりわけ冷たいものがほしくなるときがあります。というわけでイスラエルで飲んだレモネードなど思い出してせめてもの慰めにする。

レシピは探せば出てくると思うのですが、まだ調べていません。わかっているのは

  • レモンはなるべく絞ったものを使う。なければ市販のレモン汁。
  • 砂糖が入る(砂糖を溶かす時にすこしお湯を使うかもしれない)
  • レモン汁を水で薄めるか、あるいは砕いた氷に注ぐ
  • グラスまたはカラフで供する
  • 生のミントを数葉、枝ごとちぎったもの(なのでだいたい3〜4センチ長)がグラスにふんだんに入っている。最低でもこれがグラスあたり3つか4つ入る感じ。掌におさまるくらいの量だろうか。

アラブ人地区でレモネードを頼む機会がなかったので、アラブ人も同じものをつくるのかどうかはわかりません。なのでイスラエル式と書きましたが、あるいはもっと広範に飲まれているのかもしれません。イスラエルのメーカーが作る同種の清涼飲料水、つまり果物汁にハーブで風味をつけたものはアラブ人地区でもふつうに売ってました。宿の近くの食料品屋にレモネードはなかったので、グレープフルーツ100%ジュースにレモングラスバーベナで風味付けしたのをたびたび買ってました。

ミントの香りをしっかり移そうとおもうと、砂糖とミントをあわせてから熱い湯を少量注いで、それからレモン汁を加えて冷水か氷とあわせる感じでしょうか。レモン汁と砂糖の配合が妙なのか、いろいろ工夫してはいるけどどうも向こうで飲んだ味になりません。かなり意地になって、レシピみないで正しい配合にたどりつけるよう鋭意努力中。たっぷりのミントはあいにく地元の店では手に入らないので、こんど植木屋でも覘いてみるかしら。

追記:レシピにたどりつきました。他後日談は http://britty.hatenablog.com/entries/2012/08/21 から。

*1:そして収入については私は完全に専業主婦状態だったのだが、学生結婚のあと大学を出たあとはすぐ非常勤に出たこともあり、家事をする時間を極力減らし、食料品については限られた時間のなかで大量の買いだめ作りだめをするという前提は、見事に我が家の家政に適合していた。

今年もOSC名古屋へ行ってきた・他

タイトルは釣りです。

関西ウィキメディアユーザ会として初出展(ブース展示&セミナー)したOSC名古屋2011(8月20日、於名古屋国際センター、主催:オープンソースカンファレンス実行委員会、企画運営:株式会社びぎねっと)は、参加者前年度比200人増の600人が参加(主催者速報値)と大盛況だったのですが、私は療養中ですし、発表者でもないので、きっと誰か他の人がレポートを書いてくれるはず。

というわけで以下が本題です。

イスラエル鉄道紀行*1

まずは記録から。キロ数は未調査。

イスラエル国
  • ナハリヤ=ベエルシェバ線:テルアヴィーヴ・ハ・ハガナー―アッコ*2
  • テルアヴィーヴ=エルサレム線:完乗
  • ナハリヤ=モディイン線:ベングリオン空港―アッコ*3
その他
  • カルメリット(@ハイファ):完乗
  • エリコのケーブルカー:完乗
メモなど

2011年8月現在イスラエル唯一の地下鉄であるカルメリットは全線均一料金で、片道12NIS。路線の両端であるパリ広場駅とガン・ハ・エム駅のみ、紙幣両替機がある。他駅の券売機ではあらかじめ小銭を用意するか、割増料金込みでクレジットカードを使う必要がある。各駅にセキュリティチェックの係員がいるが、金属探知機はない。ご利用は自己責任で。地下鉄といっているが、急勾配を走るためか、粘着力だけではなくケーブルを使っている様子。

なお駅と市街の間での移動だが、公共バスまたはタクシーに頼ることが多いだろう。公共バスは車掌なし、ワンマン、前乗り先払い、両替は運転手がしてくれる。市内は均一料金(エゲッドバスの場合、都市に関わらず6.40NIS)、長距離はそれぞれ異なる。乗車時にチケットが発行され、発行後2時間以内なら一度だけ乗り継ぎが可能である。路線によっては24時間運行しており大変に便利だが、ターミナルを除く各停留所ではセキュリティチェックがない。このため、インティファーダ全盛期には、たびたび自爆テロの標的となったと聞く。ご利用は自己責任で。

2010年8月18日現在では、エルサレムのトラムはまだ開業していない。観光省運営の旅行案内所では開業日は未定といっていた。ただし試験運転は平日はほぼ全日行われているようす。また毎週金曜日には一般人による試乗も可能とのこと(有償かどうかは未詳)。ていうか、到着初日にてっきりもう開業したもんだと思い込んで、試乗日逃してとてもくやしいです。

ベングリオン空港のセキュリティチェックが厳しいことは有名だが、鉄道駅でも基本はセキュリティチェックがある。そのなかでも西岸などに近い駅の場合、ほぼすべての荷物を開いて見せ、ひとつひとつの物品について説明するレベルの検査が行われる。下手な国際空港のセキュリティよりよほど厳しく、時間もかかるため、とりわけイスラエル南部での鉄道旅行は時間に余裕をもって行動するべきかと思う。

なお鉄道旅行を取り扱う本稿の話題からは外れるが、ベングリオン空港のチェックインはセキュリティチェックの後に行う。私の場合、ウィキマニア終了後やや日数があったこと、金属探知機にどうも服のファスナーがひっかかったことなどもあり、別室での身体検査などを経て、検査所用時間は1時間40分に達した。ガイドブックなどのいう「出発時刻3時間前に到着」は額面どおり受け取ったほうがよい。なおそのような状態なので、セキュリティチェック終了時に解放されたあとはチェックインカウンターは当然締め切られていたが、発券は問題なく行われた。

閑話休題

イスラエル国鉄の長距離路線を走っている列車のアコモデーションがなかなかよろしかった。リクライニング機能があるかどうかは確かめていないが、全車クロスシートは当然として、ボックス内に二等車でも全席ラップトップがおける幅の固定テーブルが付随してるのがすばらしい。ただし電源やWiFiは提供されていない。オランダ国鉄インターシティアコモデーションがわりと近い感じかなあ。なお近郊線についてはみていないので分からない。

名古屋

昨年から乗車キロがまったく増えなかった……。というか去年けっこう日程的に苦労して完乗した桜通線が延伸していましてね、いや、わかってたけどね。ええ。でもやっぱり、こう、乗り鉄としては挑戦状を叩きつけられてる気がする。

かわり、というわけでもないですが、JR東海のリニア・鉄道館に行ってきました。実はあまり期待せずむしろ義務感のような何かに動かされて行ったのですが、案外よかったです。照明の使い方など、格好よくみせるツボを心得ている気がします。そして展示品では、ホジ6005もいいんですが、マルスの実機があって、我々*4はむしろそこにあった説明ビデオに映るメインフレーム(HITEC. ウィキペディア日本語版の記事も参照)やその附属機器に興奮し、ビデオを2周見たあげくに昼食時もずっとその話で盛り上がっておりました。でもまあ、リニア・鉄道館のメインはホジ6005だよね。なお館名こそ鉄道館ですが、二階にはボンネットバスの展示もありました。

というわけで今年も名港線未乗どころか、未完乗区間が増えてしまったというありさまですが、それでもリニア・鉄道館は面白かったのでよかったです。捲土重来を期しつつ、日常へ戻るんだぞ。

Inspired by id:katamachi https://twitter.com/#!/katamachi/status/107584641795497986

*1:なお、往路がAMS経由だったため、スキポール―アムステルダム中央駅にも乗ることができた。

*2:ナハリヤ=アッコ間は30分あれば往復できたのですが、アッコ見学で半日使ったため遅い時刻になり、翌日が移動日でもあり、あまり無理をしたくなかったので残しました……。アッコは十字軍というかホスピタル騎士団(現マルタ騎士団)の遺構が残る街で、なかなかよろしうございました。世界遺産なんだっけか。

*3:テルアヴィーヴ・ハ・ハガナー以北はナハリヤ=ベエルシェバ線と同じ区間を走る。

*4:OSC名古屋参加者有志がびぎねっと鉄道部に引率されて行ったのですが、すでに金城ふ頭駅の構内を出る前に、いろいろなものにいろいろな人がそれぞれ群がってしまい、「この集団に団体行動は無理だわ」と宮原さんに宣告されました。そしてそれはまったく真実でした。宮原さんはさすがに人を見る眼がある。

いまもいつも、世々に限りなく

今週のお題「2011年、夏の思い出」

はじめて地中海をみたのは1995年、いまは亡き夫との新婚旅行だった。高台にあるマルセイユ中央駅からハーバー沿いにそったホテルまでタクシーに乗って、坂を下る道へ出ると夏の海が遠く光っていた。夕食を海岸沿いのピザ屋で食べた。中サイズのを二人で分けて食べるつもりで一枚頼んで、ウェイトレスが露骨に変な顔をしたので「何だろう感じ悪い」と言い合っていたところ、隣席に座った家族連れの、まだ小学生くらいな男の子が大を一人でたいらげていたので、なるほど、我々はとても変な客だったんだなとようやくそこで得心した。

それからちょうど16年たったんだな、とウィキマニア2011の閉幕パーティで、夕日が落ちたばかりで西に淡く光が残る地中海をプライベートビーチのデッキから見下ろしながら、ぼんやりと思った。この海はあのときのマルセイユの海まで、続いているんだと、思った。
ウィキマニア2011は正式名称をウィキメディア国際カンファレンスという。2005年に始まり、以後毎年7月か8月に行われている。例年500人ほどが参加する。今年の会場はイスラエルのハイファ講堂で、正式には4日間の日程だが、先立って2日間の「開発者パーティ」やらその他運営系ワークショップが行われ、講演などで3日を費やした後、上述のパーティがあり、最終日は近隣をバスで日帰り旅行した。私はナザレとガリラヤ湖を見るツアーに参加した*1ウィキメディアと関連分野、つまりウィキやフリー/オープンソース運動についての理解を深めるためのイベントだが、ウィキマニアの本質は、ウィキメディア・コミュニティの交歓にある。世界中に散っているわたしたち数万人のボランティアの、そのなかの500人というのは、海岸の砂を少し掬ったのと大して変わらないのかもしれないけど、それでも、こうやって集まることには意義がある。わたしは、そして他のボランティアもそう思っている。

だからこそ、テロの危険がある、注意しろ、人が集まるところは避けろといわれていても、私たちは集まった。イスラエルに――ハイファに。ハイファはユダヤ人とアラブ人が混住する街で、だから日本の外務省では避けるようにいわれている類の場所だが、しかし現地実行委員はだからこそハイファを開催地に選んだ。ウィキメディアイスラエルのメンバーは(私の知る限りでは)ユダヤ人だが、アラブ系イスラエル人やさらにはパレスチナのアラブ人を巻き込んでいくことを真剣に考えているし、望んでいる。この点で、今年のウィキマニアが成功したとは言いがたいのだが、しかしそのことで彼らを責めることは間違いだろう。イスラエルパレスチナから帰ってきたいま、私はそう思う。

ハイファでウィキマニアが終わってから、エルサレムへ私はいった。7日間滞在し、ときには近郊の都市へいった。ベツレヘムやかつてのベタニヤなどへ。ベタニヤはエルサレムから徒歩で日帰りできる距離で(3.2km)夕暮れの中を歩いて帰れたらと思ったのだが、現在の名をアルイザリーヤというその町のカトリックの神父は、それは無理だといった。盗賊の危険などを指摘した上で、イスラエル軍の検問所を一人で越える難しさに触れたあと、神父は助言をこう結んだ。「西岸には壁があります。主が当時お歩きになった道はふさがれています。もはや誰にもたどることができないのです」。

エルサレムにいたときの宿は旧市街の、かつてのゲッセマネに近い場所であった。すなわち歴史的に墓地とされていた場所である。現在はアラブ人の集落ができているが、近場にユダヤ人墓地やキリスト教徒墓地があり、なので土地所有をめぐって近年衝突があり逮捕者まで出たというのは予約した後に知った。よほど予約をキャンセルしようかと思ったが、このハイシーズンに混雑する市内に宿を取る大変さを思い、結局別の宿を探すこともせず、その宿へいった。結果からいえば、宿は安宿ならではの設備の古さと旧市街から徒歩で1kmあることを気にしなければ、快適であった。墓地の前にあるので静かなんじゃないかと一瞬期待したが、それは私が馬鹿でした。ラマダン中のムスリム居住地の夜に静けさなど期待してはいけない。ましてや裏が学生クラブで大勢の若者が毎晩、卓球やら太鼓の練習やらしているようなところでは。まあおかげで、店も屋台も夜でも開いていて(というより、正午を過ぎると一度しめて日暮れ前くらいに再び開く)、乾燥地の高地ならではの涼しい夜の散策を楽しみ、中近東ならではの菓子など食べたり、あるいは屋台で小銭が足りないので値切ろうとしたら「いいよ、ぜんぶやるよ!バクシーシだよ!」と大量のミントをただでもらったり、アラブ都市としてのエルサレムを堪能しました。旧市街にはスークもあるしね。あれでハマス(トルコ風の公衆浴場)さえあれば完璧なんだが、探し方が悪かったのかどうか、どこでも見かけることはありませんでした。

新市街でいちど道に迷ったとき、たまたまあった女性に、「わたしもちょうどそっちへいくのよ、だから無問題」といわれ案内してもらった。彼女はパリからやってきて、旅行会社で翻訳の仕事をしている、滞在四ヶ月目だという。「ここ(エルサレム?)では、誰でも親切にしてくれるから、だから何があってもだいじょうぶよ」と彼女はいった。それはエルサレムだけではなく、ハイファでも、アルイザリーヤでもそうだった。テルアビブでもたぶんそうだっただろう。私は睡眠薬を持っていくのを忘れ、到着してからの数日かなりきつい状態ではあったのだが、それでも現地の友人 (Dror Kamir) が奔走してくれて日本で処方してもらったのと同じ薬を滞在日数分手にいれることができた。このことについては関係者すべてに篤く感謝する。しかもその友人は、自分の就職活動や実行委員としての活動をしつつ、薬の入手に尽力してくれたのだ。大会が終わってから、過労なのかたんなる風邪なのか、彼は熱を出して寝込んでしまった(いまでもだいぶましになったらしいが、まだ寝たり起きたりだという)。その一端はこのことにもあるんだろうなあと済まなく思いつつ、彼の友情に改めて感謝する。

ベツレヘムを訪れたときに、物売りの少年がロザリオを懸命に売り込んできたことがあった。わたしはカトリックでないからいらない、と英語でいったけれど無駄だった。私の物言いがあまり邪険だったからだろう、自らは正教徒な運転手&ガイドが私を諫めて、言った。「ここは聖地だ。カトリックは嫌い、とかいってはいけない。お互いに愛しあわなければいけない。親切にしなければいけない。ここは聖地なのだから」。そのことが滞在中もっとも深く心に残っている。

4年前、シナイ山パレスチナからきた正教徒の巡礼団とであったことがある。彼らは何人なのかと問うた私にイスラエル人だと答えた。引率の神父様は、そのとき、シナイ山の後に聖地へ行くのかと私に問われた。否定したあと神父様はこう仰られた「残念ですね。いつか聖地にいらっしゃいね」可能なら、とは仰られなかった。そんなことはたぶん起こらないだろう、と思いつつ、私も可能ならば、とはいわなかった。聖地へいつか行きたいという思いは私もあってそれを否定するようなことは私もたぶんいいたくなかったのだと思う。「私もそう望みます」私は代わりにそう答えた、ように覚えている。

自分の力でイスラエルへいけたわけではない。ウィキメディア財団から提供された旅費がなければ渡航はできなかった。急激な円高で一部を自己負担することになったが、最初の条件では往復と渡航費全額と、大会中の宿泊代、そして参加費は無料だった。むろん、それに恥じないことをいままでやってきた、という自負が私にないといえば嘘だが、しかしそれが無駄な投資だったかどうか、それはこれからの自分や、そして日本のウィキメディア・コミュニティの活動に掛かっているとも思う。

以前のエントリで触れた不眠症はまだ直っていない。帰国のあと、別のことでショックなこともあって、いつ直るかはわからない。それでも、思う。自分の望みが叶うかどうかはわからない、しかし常に自分の前には最善が備えられる、天が与えるものは私が欲するものではなく、私が真に必要とするものだからだ。だから、ウィキメディア運動も、それが真に世に必要であれば、前へ進んでいく。たとえ一歩づつだとしても。

テルアヴィヴやハイファで日を過ごしながら、ペトロが幻を得て異邦人への宣教をはじめたというヨッパの湾を散策しながら、あるいは西岸とイスラエル実効支配領域の壁を幾度か往復しながら、エルサレムの旧市街で時をついやしながら、この夏、自分が学んだことがあるとすれば、そのことだと思う――天の国はすでにきている、それを望む人の心のうちに。天のいと高きところには神に光栄、地には善意の人に平安。いまもいつも、世々に限りなく。

私は今年で43になった。おそらく人生の半分はとうに費やされているのだろう。自分に残された日がどれほどあるのか、私は知らない。けれど、自分に何かする仕事があるなら、それをすることを専に考えていきたいとおもう。いまわかっているのは、療養が必要だということ、下手に手をだせば Dror がそうだったように回りに迷惑がかかるということ。

なので、しばらく、お休みが続きます。御旨ならば、それは叶う。なので私はあせらないでいようと努力します。みなさまにも待っていていただければ、嬉しいです。――みなさま、またいつか、お会いしましょう。

*1:スケジュール詳細は http://wikimania2011.wikimedia.org/wiki/Schedule を参照。

グッデイの翻訳インターンシップに参加しました

いつの話だよ と既にご存知の方はお思いでしょうが、ともかくもご報告。

株式会社グッデイが主催した「OpenOffice.org*1インターンシップ」に参加させていただきました。インターンシップは翻訳とQAこと品質管理(Quality Assurance)の二プログラムを提供していましたが、私が参加したのは翻訳のほう。

途中から無理にお願いして参加させていただいたことなどもあり、オブザーバーとしての参加でした。初回は OpenOffice.org だけでなくオープンソースやコミュニティ全般についてのセミナーもされていたようですが、ここはまだ参加していないときだったので私は分からない。ただ、参加者用メーリングリストを拝見する限りでは、情報量も多く、講師役のグッデイの担当の方々の説明もわかりやすく、いろいろとみなさん刺激を受けておられたようでした。

翻訳インターンシップは、グッデイの大槻さんが担当され、私のほか二人の方が正規のインターンとして参加されていました。少人数で家庭的な雰囲気のなかで訳語の選択などについてはシビアな議論が交わされるという、まあ、ここは自分のホームプロジェクトと同じだったかな :) とはいえ、オフィススイートの翻訳は初めてでもあり、また OpenOffice.org のばあいはしっかりした翻訳用スタイルマニュアルもあって、とりわけ最初のうちは朱をたくさん入れていただきました。

インターンシップの計画が発表されてから実施されるまでには、OpenOffice.org からのLibreOfficeの分岐や後者の支援団体である Document Foundation(TDF)の発足などあり、OpenOffice.org コミュニティにとっては激動の時期だったろうと思います。加えて――どこのコミュニティでもそうなのだろうとはおもいますが――日本語コミュニティに特有の問題もあり、その困難のなかで、しかし落ち着いて OpenOffice.org にかかわる翻訳の訓練を受けることができた、そのことに大槻さんをはじめグッデイのインターンシップ事務局のみなさまに感謝します。

インターンシップ最終日は3月12日で、大阪の梅田のグッデイに集まって実施されるはずでしたが、地震のことがあって、中止になりました。中止自体は残念なことですが、インターンシップを通じてご知遇を得た東北や関東の方がご無事だったことには慰められました。またOSC仙台やHack for Japanのレポートなどを通じて、東北にいられるみなさまのご活躍を知ることが出来たことも嬉しく思います。

原稿を書いたり、スライドを作ったりするうえで、オフィススイーツは欠かせません。自分の活動の中心はこれからも変わらずウィキメディア運動であるだろうと思いつつ、自由でオープンなオフィススイーツの恩恵を自分もまた受けていること、そのことには、開発をはじめ、バグの報告、インタフェースの翻訳、いろいろな方のご注力があることを忘れずにいたいと思います。

さて京都でやるセミナー*2のスライドを作らなきゃいけないったら。

*1:オープンソースのオフィス生産性スイートのひとつ。

*2:健康上の理由で中止しました。事前登録された方には改めてお詫び申しあげます。http://d.hatena.ne.jp/Britty/20110622/p1 もご参照下さい。

ご報告:「ウィキペディアの歩き方」

やや旧聞に属しますが、6月5日に三宮で行いました「ウィキペディアの歩き方」はおかげさまで無事終わりました。ご出席された方からのご指摘やご質問は、わたくしども関西ウィキメディアユーザ会(WiKansai)のメンバーにとっても、自分たちのプロジェクトを新鮮な目で見直す機会となりました。改めて御礼申し上げます。詳細はWiKansaiのウェブサイトをご覧ください。

ウィキペディア以外のウィキメディア・プロジェクト」に関して複数の方からご質問をいただいたことに、個人的には最も感銘を受けました。ウィキメディア財団は複数のウィキを用いたプロジェクトを運営しています。ウィキペディアだけでなく辞書のウィクショナリー、メディア(画像や音声)リポジトリウィキメディア・コモンズ、引用句集のウィキクォート、いろいろなプロジェクトがあり、ウィキペディアと同じように誰でも参加できます*1。日本語のコンテンツはまだ少ない*2のですが、それぞれ大きな必要性と、可能性がある、わたしたちウィキメディアンはそう考えています。「人類の知識のすべて」を収めるには、百科事典だけでは足りないのだから。

わたくし個人のウィキメディアンとしての活動の中心は、そのなかで、各ウィキの協働と調整の場であるメタ・ウィキメディアとフリー引用句集ウィキクォート、とりわけ日本語版英語版にあります。現状は、と問われれば「参加者が多く、コンテンツが少ない。もっと人が増えてくることに期待したい、参加したいと思う方が増える場にしたいと考えている」とお答えしつつ、いまそこにいる自分達の地道な活動をまずその一歩にせよ、そう御叱咤をいただいたような気も個人的にはいたしました。

ウィキクォートは先月6月27日に8周年を迎えました。お姉さんプロジェクトのウィキペディアにはまだ遠く及びませんが、あせらず弛まず、続けていきたいと思います。今後ともウィキペディアをはじめウィキメディア・プロジェクトへのご支援をお願いいたします。

*1:ただしウィキメディア・コモンズには、利用者登録等が必要です。

*2:ただしウィキメディア・コモンズは、コンテンツが全ウィキメディア・プロジェクトで共用されるため、ファイル名に英語が推奨される、などの制約はあります。一方で、コモンズは多言語プロジェクトであるため、コンテンツへのコメントに日本語をつけることなどは推奨されます。日本語で議論や情報交換をする場もウィキの中に設けられています。

ひょうごんテックとSahana Japan Teamを辞めました

本日2011年6月22日をもちまして、ひょうごんテック世話人会およびSahana Japan Teamをやめましたので、お知らせいたします。

ひょうごんテックおよび Sahana Japan Team において本年4月以来続いておりましたセクシャルハラスメント、およびその告発後に両団体関係者から受けた度重なる不誠実な対応にわたくしは疲れ果てました。

私事ではあれ、なんどかこのブログでもご紹介した団体内の去就の話ですので、このブログでもお知らせすることに致しました。他所ですでにご覧になった方には、重複をお詫び申し上げます。

セクハラが発生し、どなたにも相談できない数ヶ月の間、また相談し告発した後でも心無いしうちのため、心因反応を起こし、数時間、あるいは1時間すらも眠れない夜を何度もすごしました。疲労がたまり、注意力が落ち、また不安を感じるようなことも重なり、いろいろなことが常のようには出来ませんでした。もとより前からご相談申し上げ、辞退すべきは早々に辞退すべきだったのだと思いますが、もう少しよい解決ができるのではないかと、そのときは思っておりました。この数ヶ月、そのことで負担をかけ、あるいは失礼をしたみなさまにも改めてお詫び申し上げます。

最初に Sahana Japan Team を離れようという相談を申し上げたのは、Sahana Software Foundation の Louiqa Raschid さんでした。つねに親身に接してくださり、このままにはしない、改善へむけて出来る限り支援するとお約束くださいました。そのことには感謝しています。でも、わたくしはもう疲れました。

わたくしのひょうごんテックおよびSahana Japan Team における活動におきまして、ご支援ご協力たまわりましたみなさまに御礼申し上げますとともに、みなさまからいただいたご期待に添えず、申し訳なく存じます。けれども、わたくしはもう限界です。ご理解をいただければ幸いです。

現在は、これによって蒙った心的外傷の治療をしております。しばらくは療養を第一にしたいと存じますが、ウィキメディアをはじめとしてオープンライセンス、フリーライセンスにかかわる活動は今後も続けていきたいと思っております。浅学菲才の身、みなさまには今後ともご指導ご鞭撻たまわりますようお願い申し上げます。